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現代社会学科

2018.05.22

福島藩の幕末・戊辰戦争:学科の紹介【39】

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現代社会学科

授業・研究室

福島藩の幕末・戊辰戦争

藤實久美子教授

 慶応4年(1868)正月9日朝、「去3日鳥羽・伏見の戦いで徳川幕府軍は敗北した」との報が福島城に入った。福島藩内の議論は、朝廷を支える勤王か。幕府を支える佐幕か。両論に分かれた。正月15日、「徳川慶喜追討命令」が奥羽諸藩に発せられた。福島藩内は勤王に傾いた。佐幕を唱える江戸留守居馬淵清助は国許に呼び戻され、揚屋(あげや・牢獄)入りを命じられた。
 3月5日、福島藩主板倉勝尚(当時17歳)は江戸を出立した。帰福途中の下野国喜連川には藩士が待ち受け、「上京」を進言する。だが勝尚は帰福する。これはその後に大きな影響を与えることになる(写真1 板倉神社 福島城址にある)。

写真1 板倉神社 福島城址にある

写真1 板倉神社 福島城址にある

4月10日過ぎ、福島城下には会津討伐先鋒の任務をおった仙台藩士が集まり始める。
 閏4月11日、奥羽諸藩は白石城で会議を開き、会津藩主松平容保の謝罪嘆願を決める。12日仙台藩領岩沼に置かれた奥羽鎮撫使の総督府に、仙台藩主伊達慶邦(43歳)・米沢藩主上杉斉憲(48歳)はおもむく。総督府は提出された嘆願書を受理した。しかしながら、下参の世良修蔵の強硬意見によって嘆願書は却下され、総督府は戦闘続行を決めたという。
 閏4月20日、世良修蔵は福島城下で仙台藩士に暗殺される。
 閏4月23日、奥羽諸藩は白石城に再び集まり、新政府軍に対抗する奥羽列藩同盟を結ぶ。同盟軍事局は福島城下の舟場町(ふなばちょう)長楽寺に置かれた(写真2 長楽寺)。

写真2 長楽寺

写真2 長楽寺

閏4月27日、棚倉から援兵依頼の書状が福島藩に届いた。
 翌日申刻(16時)過ぎ、藩主の見送りを受けて、陣貝(じんがい・ほら貝)の音と共に福島藩軍は出発する。以後、福島藩軍は奥羽街道を南下する。
 5月3日、つぎの4点が仙台藩の参謀増田歴治繁幸より伝えられる。

  (1) 白河城は新政府軍によって奪取されて「味方」は敗走した。
  (2) 大軍をもって今後白河城を攻める。
  (3) 番手は1番二本松藩、2番会津藩、3番仙台藩、4番福島藩とする。
  (4) 進軍の指図は仙台藩参謀増田が務める。

 目指す場所は白河城に変更された。
 5月6日、福島藩軍は郡山善道寺に到着する。9日から20日まで福島藩軍は須賀川に滞陣した。25日二本松藩隊長丹羽右近より書状が届き、また6月1日仙台藩隊長中島兵衛助の来陣があり、5日白河城総攻撃と決まった。しかし、攻撃は延期される。
 12日七ツ時(午前4時)、外面(とづら)から大谷地(おおやじ)に繰り出す。仙台藩隊長中島に続いての出陣であった。六ツ半時(午前7時)味方優勢となり、大谷地から金勝寺山手前まで繰り出す。砲戦は2時間におよび、混乱は極まり、応戦はもはや難しくなった。
 未刻(午後2時)、外面まで後退し、中島も矢吹まで退却したとの知らせが入る。福島藩軍も矢吹に引き揚げる。ただし21名は帰らぬ人となった。
 16日、福島城から矢吹に早馬が着き、次のことが伝えられた。福島から兵の補強は望めない。この場で頑張ってほしい。藩主は戦場の様子を詳しく聞き落涙された。
 17日、仙台藩士泉田志摩(福島軍事局参謀)が矢吹に到着し、諸藩の隊長は集められた。その後、仙台藩物頭今村鷲之助より福島藩に対して兵の増員が示唆される。しかし福島藩は矢吹南関門の守衛を務めるにとどめ、人員交代を名目に5・6人ずつ引き揚げることにする。
 7月25日、新政府軍による二本松攻撃は近いとのことから、藩主は米沢藩領板谷に退去する。その後、二本松城の戦況が決まる。藩論は分かれたが、29日福島城は開城し、城と城下は仙台藩・米沢藩の管理下に入った。8月15日仙台藩降伏、9月4日米沢藩降伏。福島城には新政府軍渡辺清が入った。

 以上は、戊辰戦争での福島藩軍の動きである。
 ここからは福島藩軍が仙台藩の隊長の指示に従って動いたことがわかる。そのためであろう。これまで福島藩の行軍の様子は知られていなかった。

 今回、福島民報社主催「戊辰戦争150周年歴史講演会 福島県の幕末と戊辰戦争を読みなおす」にお招きいただいた(リンクhttp://www.minpo.jp/news/detail/2018050451335)。講演準備のなかで福島県立図書館所蔵の「陣中日誌」を解読する機会を与えられた。
 「陣中日誌」の記主は福島藩物頭・高橋秀蔵直周である。「地域の視座から通史を撃て」とは歴史家宮地正人の名言である。地域史料を地道に解読して共有してゆくことは、私たちの務めである。

【参考文献】福島市教育委員会編、1973『福島市史』

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