2018.11.01
【著者紹介】
綾目 広治(あやめ ひろはる)
近代文学担当 昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。
反骨の文学者たち
本学が位置する岡山県は、実に多くの文学者を輩出したところです。大阪などの大都市圏を除くと、輩出数は西日本屈指です。また、岡山出身ではないけれど、岡山に移り住んだりして、岡山に縁(ゆかり)のある文学者などをも含めれば、岡山に関係のある文学者たちのみで日本の近代文学史を語ることができるほどです。明治初期の翻訳もの中心の時代から現代までの各時代で、途切れなく岡山関連の文学者が登場しているのです。このことに驚かされます。
その中でも、岡山に縁のある一群の文学者たちには、或る系譜というものがあるのではないかと思われます。それは反骨(はんこつ)の系譜です。反骨というのは、権力や支配体制などに容易に靡(なび)かない気骨(きこつ)、気概のことです。岡山に縁のある文学者の中には、政治的社会的な主張などを特に持っているのではありませんが、しかし、反骨の精神を持った人たちがいます。
たとえば吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)です。ただ、彼は生まれてからすぐに東京に移り住んでいます。しかし、彼は〈自分の郷里は岡山である〉という郷土意識を持ち続け、学校の夏休みなどには岡山の親戚の家で過ごしていたようです。
1941(昭和16)年12月8日、吉行淳之介が通っていた旧制中学校で校内放送が、日本軍による真珠湾攻撃の報を知らせた時、ほとんどすべての級友たちが歓声をあげてグランドに出て万歳三唱(ばんざい さんしょう)をしました。しかし淳之介少年は一人教室に残っていました。彼は当時の軍国主義に対して反発していたのです。あの時代に反軍国主義の精神を堅持するだけでもたいへんなことだったことを考えますと、一見、軟派(なんぱ)な文学者のように見える吉行淳之介ですが、意外に骨太な反骨精神があったことがわかります。
後になって吉行淳之介は当時を振り返りながら、こう語っています。「そのときの孤独の気持を私はどうしても忘れることができない。/(改行)戦後十年経っても、そのときの気持は私の心の底に堅い芯を残して、消えない」(「戦中少数派の発言」)
その吉行淳之介が親しみを感じていたのが、同じく岡山出身の文学者の内田百閒(うちだ ひゃっけん)です。内田百閒は、1942(昭和17)年に陸軍の肝いりで作られた日本文学報国会に入会することを最後まで拒み続けた文学者でした。日本文学報国会というのは、文学者に戦争協力させるために作られた団体で、ほとんどすべてと言っていいくらいに、たいへん多くの文学者が入会しました。それは、入会しなければ軍部に睨(にら)まれて執筆機会が与えられなくなることもあったからでした。そうした中で、あくまで内田百閒は入会しなかったのです。吉行淳之介と同じように内田百閒は、反軍国主義の筋を通したわけです。
なお、内田百閒は、戦後になって日本芸術院への入会を推薦(すいせん)されましたが、これも断っています。そのときの理由が、「いやだから、いやだ」というもので、この言葉は当時の新聞に大きく出たようです。日本芸術院の会員になるということは、文学者でも、また画家や音楽家であっても、芸術家としては名誉だとされているわけですが、内田百閒はそういう権威主義的なものが厭(いや)だったのです。
その他にも、たとえば大正ロマンの代表者の一人のように言われる、岡山出身で詩人そして画家の竹久夢二がいますが、彼も反骨精神の人だったと言えます。彼は若いときには、でっちあげ事件であった、あの大逆事件で処刑された、日本の初期社会主義者である幸徳秋水たちが作っていた平民社に出入りしていました。竹久夢二の描く美人画のヒロインたちは、寂しそうで薄幸なイメージがありますが、竹久夢二は弱い人、薄幸な人に同情を心からの同情を寄せる人でした。そのことの奥には当時の社会体制のあり方に対する竹久夢二の反骨があったと言えます。
また、ニヒルな剣豪〈眠狂四郎〉(ねむり きょうしろう)シリーズで一躍、人気時代小説家となった、岡山出身の柴田錬三郎も反骨の人です。彼は軍隊経験のある人でしたが、彼は旧日本軍の空疎(くうそ)で欺瞞(ぎまん)的な精神主義に強烈な嫌悪感を持っていた人でした。兵隊時代には、そのことがどうしても思わず態度に出てしまうために、上官に暴力的な制裁(せいさい)を受けたりして、苦労したようです。〈眠狂四郎〉には、その反軍国主義がそのまま出ているわけではありませんが、空疎な精神主義に対する嫌悪を読み取ることができます。
このように、岡山出身の文学者には、政治思想などには関心を持たずノンポリティカル(非政治的)ではあるものの、安易に時勢に迎合(げいごう)しない、一本筋の通った反骨に系譜があるように思われます。本学科の授業で、反骨の文学者たちの作品を読んでみませんか。
画像の無断転載を禁じます。
綾目 広治(あやめ ひろはる)
近代文学担当 昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。
反骨の文学者たち
本学が位置する岡山県は、実に多くの文学者を輩出したところです。大阪などの大都市圏を除くと、輩出数は西日本屈指です。また、岡山出身ではないけれど、岡山に移り住んだりして、岡山に縁(ゆかり)のある文学者などをも含めれば、岡山に関係のある文学者たちのみで日本の近代文学史を語ることができるほどです。明治初期の翻訳もの中心の時代から現代までの各時代で、途切れなく岡山関連の文学者が登場しているのです。このことに驚かされます。
その中でも、岡山に縁のある一群の文学者たちには、或る系譜というものがあるのではないかと思われます。それは反骨(はんこつ)の系譜です。反骨というのは、権力や支配体制などに容易に靡(なび)かない気骨(きこつ)、気概のことです。岡山に縁のある文学者の中には、政治的社会的な主張などを特に持っているのではありませんが、しかし、反骨の精神を持った人たちがいます。
たとえば吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)です。ただ、彼は生まれてからすぐに東京に移り住んでいます。しかし、彼は〈自分の郷里は岡山である〉という郷土意識を持ち続け、学校の夏休みなどには岡山の親戚の家で過ごしていたようです。
1941(昭和16)年12月8日、吉行淳之介が通っていた旧制中学校で校内放送が、日本軍による真珠湾攻撃の報を知らせた時、ほとんどすべての級友たちが歓声をあげてグランドに出て万歳三唱(ばんざい さんしょう)をしました。しかし淳之介少年は一人教室に残っていました。彼は当時の軍国主義に対して反発していたのです。あの時代に反軍国主義の精神を堅持するだけでもたいへんなことだったことを考えますと、一見、軟派(なんぱ)な文学者のように見える吉行淳之介ですが、意外に骨太な反骨精神があったことがわかります。
後になって吉行淳之介は当時を振り返りながら、こう語っています。「そのときの孤独の気持を私はどうしても忘れることができない。/(改行)戦後十年経っても、そのときの気持は私の心の底に堅い芯を残して、消えない」(「戦中少数派の発言」)
その吉行淳之介が親しみを感じていたのが、同じく岡山出身の文学者の内田百閒(うちだ ひゃっけん)です。内田百閒は、1942(昭和17)年に陸軍の肝いりで作られた日本文学報国会に入会することを最後まで拒み続けた文学者でした。日本文学報国会というのは、文学者に戦争協力させるために作られた団体で、ほとんどすべてと言っていいくらいに、たいへん多くの文学者が入会しました。それは、入会しなければ軍部に睨(にら)まれて執筆機会が与えられなくなることもあったからでした。そうした中で、あくまで内田百閒は入会しなかったのです。吉行淳之介と同じように内田百閒は、反軍国主義の筋を通したわけです。
なお、内田百閒は、戦後になって日本芸術院への入会を推薦(すいせん)されましたが、これも断っています。そのときの理由が、「いやだから、いやだ」というもので、この言葉は当時の新聞に大きく出たようです。日本芸術院の会員になるということは、文学者でも、また画家や音楽家であっても、芸術家としては名誉だとされているわけですが、内田百閒はそういう権威主義的なものが厭(いや)だったのです。
その他にも、たとえば大正ロマンの代表者の一人のように言われる、岡山出身で詩人そして画家の竹久夢二がいますが、彼も反骨精神の人だったと言えます。彼は若いときには、でっちあげ事件であった、あの大逆事件で処刑された、日本の初期社会主義者である幸徳秋水たちが作っていた平民社に出入りしていました。竹久夢二の描く美人画のヒロインたちは、寂しそうで薄幸なイメージがありますが、竹久夢二は弱い人、薄幸な人に同情を心からの同情を寄せる人でした。そのことの奥には当時の社会体制のあり方に対する竹久夢二の反骨があったと言えます。
また、ニヒルな剣豪〈眠狂四郎〉(ねむり きょうしろう)シリーズで一躍、人気時代小説家となった、岡山出身の柴田錬三郎も反骨の人です。彼は軍隊経験のある人でしたが、彼は旧日本軍の空疎(くうそ)で欺瞞(ぎまん)的な精神主義に強烈な嫌悪感を持っていた人でした。兵隊時代には、そのことがどうしても思わず態度に出てしまうために、上官に暴力的な制裁(せいさい)を受けたりして、苦労したようです。〈眠狂四郎〉には、その反軍国主義がそのまま出ているわけではありませんが、空疎な精神主義に対する嫌悪を読み取ることができます。
このように、岡山出身の文学者には、政治思想などには関心を持たずノンポリティカル(非政治的)ではあるものの、安易に時勢に迎合(げいごう)しない、一本筋の通った反骨に系譜があるように思われます。本学科の授業で、反骨の文学者たちの作品を読んでみませんか。
画像の無断転載を禁じます。