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日本語日本文学科

2005.07.01

言葉は話し手自身を語る|氏家 洋子|日文エッセイ21

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第21回】2005年7月1日

言葉は話し手自身を語る

著者紹介
氏家 洋子 (うじいえ ようこ)
日本語学・日本語教員養成課程担当
ことばが私たちの精神活動や社会・文化とどう関係し合うかについて考えています。

言葉はその言葉を発した話し手自身を語る。或る意味でごく当たり前のことだ。ただし、ここから、だから言葉遣いに気をつけようというのではない。もともと、他者へ伝えるために生まれ、発達したのが言葉だ。

言葉を使い、何らかの思いを伝えようとする時、その情報の送り手にそんなことは意識されていない。「言葉は話し手自身を語る」という感想は話し手により放たれた言を観察する立場で見た時、生まれるもののようだ。それもとりわけ相手や他者を表現したはずの言が実は話し手の姿を映し出していたという時に。

『菊と刀』(1946)で名高いルース・ベネディクトは次のように言う。その前にまず前後の状況だが、或る日本人が自分の言に対して相手のアメリカ人が笑ったのを見て、こんなに真剣に相談しているのに不誠実だと激しい怒りを感じるという場面。自らの言に対する相手の笑いを嘲笑と受け取り、憤怒した或る日本人の姿を取り上げてこう続ける。「日本人は、人は自分で辱められたと考えるのでなければ辱められるということはありえないこと、また、人を汚辱するのは『当人から出てくるもの』だけであって、他人がその人に向かって言ったり行なったりすることではない、ということを教える倫理を持ち合わせていない」(『菊と刀』長谷川松治訳1972)。著者に来日経験がないことなどから批判も多い著作であることは承知しているが、汲み出せるものが多いのもまた事実だ。

さて、この話について少なくとも日本社会ではわかるという人とわからないという人とに分かれる。侮辱されたという事実は動かせないがそれをどう取るかは受け手の問題だとする人もある。これは後者に属すと見るべきだろう。侮辱されたと取ることはないとベネディクトは見ているのだから。わからないという人には次の例を出すとよくわかると言われる。

昨今の例の「いじめ」問題。クラス内で標的を決め、「汚い」といじめる様子を目の当たりにした小学6年の児童が「汚い」のは標的とされた子ではなく、いじめをする当人の心だと書いている(朝日新聞1998年11月23日朝刊)。先にベネディクトの言をわからないとした人もこの例だとわかると言う。言葉は話し手自身を語るとはこのことだ。ここにあるのは心に問題を抱え、その鬱憤を晴らすために他者に攻撃的に関わる姿、そこから出た言葉。ところが私達は或る人が或る対象を「汚い」と表現するのを聞いた時、それを事実かと勘違いすることがある。他者の或る言動を目前にした時、全く受け身になり他者の言を鵜呑みにすることがある。そこにはそれを必然化させている所属集団の社会・文化の質も関わっているようだ。こんな非生産的な事態はまず話し手について分かっていればある程度は避けられる。予備知識が無い場合は常に事実を知ろうとする心の姿勢を意識的に持つことで一定程度回避できるはずだ。

或る言葉、或る発話について知ろうとすることはその言葉の話し手、相手、場面を含む全体的状況を知ろうとすることである。人間を知ろうとすることなしに言葉について知ることはできない。そして、その人間は必ず或る社会集団で生育し、自らの言葉を育んだのであるから、その集団の社会・文化の質について知ることも必要になる。この作業が必然的に含む、自他の文化を対照させる視点は、人間の普遍性を知る機会ともなり、また、場合によっては所属文化との訣別も生じさせる。言葉について知ることのダイナミズムと言ったらよいだろうか。

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