• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2005.04.01

金子彦二郎(1889-1958)との出会い|田中 宏幸|日文エッセ イ18

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第18回】2005年4月1日

金子彦二郎(1889-1958)との出会い
著者紹介
田中 宏幸 (たなか ひろゆき)
国語科教育担当
日本語表現法・国語科教育法について理論と実践を通して研究しています。

一冊の本との出会いが、研究の方向を決定するということがある。私の場合、金子彦二郎との出会いがそれであった。

私は、この一年間、国内研修の機会を得て、早稲田大学大学院で「作文教育における発想・着想指導」の研究を進めてきたが、なかなか研究対象を絞りきれないでいた。浜本純逸教授の勧めもあり、明治後期~昭和前期の旧制中学校及び高等女学校での作文指導の実態を調べていったが、指導理論や実践事例が一本の線としてつながってこない。ひたすら文献を集め、苦しみながら原稿用紙30枚程度にまとめるという日々が、毎週続いていた。

研修期間も折り返し点が近づいていた2004年8月27日のことである。軽井沢で開かれたゼミ合宿の帰り道、長野新幹線の発車時刻まで40分ほどのゆとりがあったので、駅近くの「古書りんどう」で時間をつぶすことにした。

神田や早稲田の古書店と違って、専門書が並んでいるわけでもない。あまり期待もせず、棚を見ながら狭い通路を抜けていくと、段ボールの箱に無造作に放り込まれた古い教科書の山が目についた。その箱の中は整理もされていないので、尋常小学校の教科書もあれば、英語の教科書や参考書も混じっているという状態だ。ほこりを払いながら点検していくと、その中に一冊、高等女学校用作文教科書『現代女子作文』巻二(金子彦二郎著、光風館、大正14年1月)が紛れ込んでいた。

金子彦二郎という人の名は、『国語教育』(我が国最初の国語教育月刊誌。大正5年1月創刊、昭和16年3月終刊。保科孝一主幹。育英書院刊)という雑誌で知ってはいた。といっても、大正4(1915)年に石川県女子師範学校及び第二高等女学校教諭となり、「我が作文教授」と題する実践論文がこの雑誌に6回にわたって連載された人である、という程度の知識である。彼の迫力のある独創的実践には心ひかれたが、金沢大学に問い合せても資料が集まらず、ほとんど諦めかけていたのである。その人の著書が目の前にある。私は、店主の言い値で買い求め、新幹線に乗った。

B6版、200頁余の小さな本である。桜色と薄緑色のすっきりとしたデザインの表紙で、裏表紙には「二甲・大池みち子」という名前が書き込まれている。開くと、中扉に続いて、幼児がうたた寝をしているカラーの口絵(「甘き眠り」)。このころから既にカラーが用いられていたのかと驚かされる。本の間から、ひらりと押し花が出てくる。女生徒が挟んでおいたものであろう。80年経って日の目を見た可憐な小花である。「序文」はない。全21課で構成されている。

「目次」には、次のように記されている。
第一 題のつけ方(文話)
一 新奇なそして内容にふさわしい題を/二 文の書出しと結び
第二 新教科書を手にして
その一 思はぬ失策/その二 淡い執着を残して/その三 新読本の頁を「特急で」
第三 初袷着る頃
その一 鋏の音/その二 逝く春の小唄/その三 晩春の田舎(詩)
第四 手
その一 ジヤン・ケン・ポン/その二 愛らしい手/その三 妹の手(詩)/その四 動物の手
第五 絵葉書便り
その一 奈良の古都にて/その二 鄙びた茶摘唄が/その三 おなつかしき先生へ/その四 みなはさん
第六 学芸会所感
その一 椅子のつぶやき(身の上話体)/その二 少女の心(詩)/その三 無形の栄冠を戴いて
第七 人物の描写について(文話)
(例話)「武蔵野」(国木田独歩)
第八 私の学校の小使さん(或は門衛)
その一 眉毛の中の命毛/その二 門衛のおぢいさん/その三 四つ眼のぢいさん
第九 お話の筋書
(もとの話)「長吉の飴ん棒」/その一 木の上の烏が「あはう」
第一〇 皇太子殿下御帰朝奉迎記
その一 よろこびの日/その二 日嗣の皇子は帰り来ませり(詩)
第一一 生きた手紙三つ(転・退・休学せる友に)
その一 何時も淋しい思をして/その二 海老茶袴に執着せぬ心に/その三 お風邪召し易い輝子様
第一二 秋の歌を散文に
その一 コツプの牛乳/その二 夕日は沈む/その三 お待遠さま―
第一三 読本巻三を読み了へて
その一 あゝ、こはかつた/その二 生あらば―/その三 お弁当のしみも
第一四 作者の位置と文の四態(文話)
(説明体/対話挿入の説明体/対話体/自叙伝体)
(文例)「すくなびこな」(坪内逍遙)/「吾輩は猫である」(夏目漱石)
第一五 運動会の記
その一 決勝線まで/その二 その前夜/その三 勇しき勝利の歌(某小説家の作品)
第一六 絵画から文を
その一 甘き眠り/その二 名案名案
第一七 随意選題
その一 南京豆(詩)/その二 邪魔者の蜘蛛/その三 まよひ児(詩)/その四 母よ、何処に
第一八 音
その一 おいしさうな音/その二 カツチリカツチリ(詩)/その三 あさましい響
第一九 知の文と情の文(文話)
第二〇 此の頃の私
その一 寒月の夜の私/その二 二つの心/その三 はてしなき疑問
第二一 二年生生活を回顧して
その一 今年も椿の花は/その二 印象深かつた二年生生活
附録 ペン字の手紙
その一 ノートを拝借/その二 ラケツトの購入を頼む/その三 海幸をお贈りします/その四 残念ながらお供が/その五 女中のお世話を

各課ごとに、課題と解説文と生徒作文例とが載せられている。この題材の豊かさ、生徒作文の題のつけ方、解説のわかりやすさ、どれをとっても実に楽しそうな教科書である。歌を散文に書き換えたり、絵画から文章を作り出したりする課題は、現代の作文教育よりも進んでいるのではないかと思われるほどである。私は、むさぼるように読みふけった。

秋を迎え、東京に戻って、浜本先生にこのことをご報告すると、「もしかすると一冊あるかもしれないよ」とおっしゃる。天井まで届く蔵書の中から出てきたのは、『現代女子作文』改訂版巻三(光風館、昭和5年)であった。和綴じの茶色い本である。本のサイズも菊判となり、内容も全面的に書き換えられている。

ここにも、さまざまな作文指導の工夫が見られる。この金子彦二郎を研究対象に据えていけば、大正~昭和前期における中等作文教育の実態が見えてきそうだ。そういう手応えを感じたのはこのときだ。

それから先は、インターネットも活用しつつ、古書店をめぐり、金子の著書を収集することとなる。やがて、「改訂版巻一」、「改訂版巻二」と、少しずつ手に入り始める。早稲田大学はもとより、お茶の水女子大学、国立教育政策研究所、東書文庫、教科書センター、三康図書館等にも足を運び、図書を閲覧させていただく。さらに、大学時代の恩師野地潤家先生(広島大学名誉教授・鳴門教育大学名誉教授)から、「初版本巻三」「初版本巻四」「改訂版巻四」「改訂版巻五」「金子彦二郎先生追悼文集(非売品)」等の蔵書をお借りする。こうして教科書と金子の著書22冊もほぼ手に入り、全貌がつかめるようになってきた。

金子彦二郎という人物を、一言で紹介するとすれば、「何も書くことが無いといふ生徒も、実は書くベき材料を持合してないのではなくて、如何なる方面に着眼すべきかに思ひ当らない者である」という信念を持ち続け、生徒の発想・着想を豊かにするために、さまざまな「暗示的指導」を行った人だということになる。そもそも、「想」を形成するには、①「題材に対する認識を深めること」、②「立場を確立すること」、③「文章形態の特質を理解すること」、④「場の条件を自覚する
こと」という四つの条件を満たすことが必要だと考えられるが、金子は、こうした四条件を満たす具体的な指導方法を、次々と考案していったのである。

この金子彦二郎との出会いは、偶然に偶然が重なるような形で生まれたものである。また、野地潤家先生、浜本純逸先生をはじめとして、多くの先達の学恩に支えられて資料が揃い、そのお陰で、金子の近代国語教育史上の意義も、ほぼ明らかになりつつある。この一年は、「探究する心を持ち続けていれば、資料は向こうからやってくる。」ということを実感した日々であった。

金子の考案していった作文指導法は、今も尚、新鮮さを失ってはいない。金子の指導原理を解明していくことによって、形骸化しつつある作文指導に新たな命を与え、生徒が作文主体となって内発的に文章を創造していく道が開かれていくと期待される。

では、金子はどのような暗示的指導を行ったのか。また、その結果、どのような生徒作文が生まれたのか。その詳細は、次回にご報告するということにしよう。

(【第30回】 縁は異なもの ―金子彦二郎との出会い(2)― 2006年4月1日)

日本語日本文学科
日本語日本文学科(ブログ)

一覧にもどる