• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2004.09.01

立身出世主義と松本清張『砂の器』|綾目 広治|日文エッセイ11

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第11回】2004年9月1日

立身出世主義と松本清張『砂の器』

著者紹介
綾目 広治(あやめ ひろはる)
近代文学担当
昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。

「立身」というのは儒教から出た言葉であり、「出世」というのは仏教から出てきた言葉です。ただ、「出世」は本来「出世間」のこと、すなわち世俗の社会から出て悟りの修行をすることを意味していましたが、江戸後期あたりからむしろ逆の意味を帯びるようになりました。つまり、世俗での栄達を求めることを意味する言葉になったわけです。日本の近代社会に生きてきた人たちの多くは、この立身出世意識に駆られて生きてきました。立身出世主義は明治以降の日本人を包むエートス(精神的な雰囲気)であったと言えましょう。近代文学の作品を見ても、立身出世の問題が青年たちにとっていかに大きな問題であったかがわかります。たとえば、日本近代文学の出発点にあるとされる二葉亭四迷の『浮雲』は、立身出世しなければ恋が成就しないという物語ですし、同じく出発点に位置するとされている森鴎外の『舞姫』は、立身出世をとるか恋をとるかという物語です。文学者たちは立身出世主義を表面では否定していましたが、実は彼らの中にも立身出世意識は濃厚にありました。太宰治などはその典型とも言えます。

日本の近代社会は青年たちに強迫観念のように立身出世意識を植え付けました。そして、努力すれば成功するのだという幻想をも植え付けました。しかしながら、努力すれば本当に成功したのかというと、残念ながらそうではありませんでした。出自や生育環境の差によって、あらかじめ立身出世の範囲は限定されていました。人々が思っているほど、日本の近代社会は自由でチャンスの多い社会ではなかったのです。厳然とした階級社会、階層社会であったこと、そして今なおそういう社会であることが社会学者たちによって明らかにされています。

松本清張の『砂の器』の主人公である和賀英良もその意識に捉われた青年です。副主人公と言える関川重雄もそうです。彼らは、立身出世を俗物主義だとして批判していますが、その彼らも立身出世したい青年たちでした。そのために彼らはある種の「無理」をします。それが犯罪に繋がります。松本清張の推理小説にはそういう物語が多く見られます。

『砂の器』は約三十年前に映画化されました。今年の二○○四年にはテレビドラマ化されました。視聴率は悪くなかったようですが、もしも一九八○年代から一九九○年代のあのバブル経済の時代にテレビドラマ化されたなら全くの低視聴率であったことでしょう。日本の社会の階層化、階級化が二○世紀末から一段と進んでいると経済学者たちが言い始めています。おそらく、そういう社会の在り方と『砂の器』のテレビドラマが受け入れられたこととは大いに関係があると考えられます。若者たちは、無理をしなければ出世できないという今日の日本社会の閉塞感を肌身に感じているからこそ、このテレビドラマを身近なものに思ったのではないでしょうか(もちろん、人気タレントが出演しているということもあったでしょうが)。

本学科の近代文学の講義では、このような現代社会の問題と文学との関係についても考えていきます。

日本語日本文学科
日本語日本文学科(ブログ)

一覧にもどる