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日本語日本文学科

2009.12.01

神の槌音|星野 佳之|日文エッセイ74

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第74回】2009年12月1日

神の槌音
著者紹介
星野 佳之(ほしの よしゆき)
日本語学担当
古代語の意味・文法的分野を研究しています。
 
 最近機会があって『日本書紀』を読んだ。最初の神話の部分はおもしろく読めるのだが、後半になると具体的な事件の羅列が続き、歴史学に暗い私にはともすれば退屈なところである。それでも読み進めて興味を引かれたのは、天武天皇十三年に起こった地震の記事であった。
 人の寝静まった頃に発生したこの地震は「山崩れ河湧」くほどの規模で、人民家畜に死傷するもの多く、「諸国の郡の官舎及び百姓の倉屋、寺塔神社、破れし類、あげて数ふべからず」と物的被害も甚大であった。伊予の温泉が埋もれて出なくなり、土佐の広大な田畑が海に没したというから、今の四国で起こったようでいて、記事は次のように終わる。

この夕に、鳴る音ありて鼓の如くありて、東方に聞ゆ。人ありて曰く、「伊豆嶋の西北、二面、自然
に増益せること、三百余丈。また一つの嶋となれり。即ち鼓の音の如くあるは、神のこの嶋を造る響
なり」といふ。
(岩波文庫『日本書紀』を参照した)

注釈もなく「伊豆嶋」といえば今の伊豆大島だろうから、別の記事が混入でもしたのだろうか。いずれにせよ伊豆の方でも地震の規模は大きく、これで一つの島が誕生するほどであった。

 地震は今でも大変な厄災である。「国挙りて男女叫(よば)ひてまどひぬ」という動揺ぶりは現代人も余り変わるまい。ただその背景に神の島造りを見るのは、やはり古代一流の見方である ― と、最初は思ったのだが、それはこちらの画一的な捉え方に過ぎないのかも知れない。

 もとより地震の原因に神を求める現代人はそう多くあるまいが、私の関心からすればこの記事で注意すべきは神そのものではなく、神についての語り方である。先にも述べたが、天地の始まりから説明する『日本書紀』は、私たちが「神話」と呼ぶ部分を冒頭に持つ。かのイザナキ・イザナミ二神が国を作り、子となる神を産み...という具合に、神々は具体的に行動し、言葉を発し、怒ったり泣いたりする。その一つ一つの行動が、古代人の世界の一つ一つを根拠づけている、と『日本書紀』は説く。
 ならば神が島を造るという発想も、それが人間の生活に地震として影響したという理解も、ごく自然なもので異とするに足るまい。それはよい。しかし、この天武十三年の記事では、「神」は「人ありて曰く」、つまり或る人の言ったこととして紹介されるのであって、『日本書紀』自身がする説明ではない。まさに括弧に入れて語られるのであって、天武十三年に神が現れたと言う記事ではないのだ。
 これは冒頭神話部分と異なる語り方ではないのか。イザナキ・イザナミが矛を降ろして海水をかき混ぜたと描写できるのなら、土や岩を盛って島を造る神の様子も描けたはずではないか。そうはなっていないところに、冒頭部とは異なる物の見方が現れていると考えられるのではなかろうか。大体が『日本書紀』完成時の元正天皇にとって天武天皇は祖父である。天武十三年は、天地開闢といった歴史の遙か彼方ではなく、彼らにとっての「近代」なのだ。天地国家の創造期にはあれだけ多彩な活躍を見せた神々も、この「近代」に於いては、いるにしても目の前には現れなくなっていたのだろう。直接姿を見せない神の姿を、島の隆起やその音といった現象から間接的に辿らねばならぬ時代に、もはや移っていたのである。
 古代人にも「古代」はある。それは考えてみれば当たり前のことながらつい忘れてしまう。『日本書紀』のこの記事は、私にもう一度そのことを思い起こさせたのであった。

 今や神はさらに遠ざかり、毎年のように起こる地震を説明する言葉は「断層」とか「プレート」とかになった。それでも地震は怖ろしいし、人が亡くなったら、それは意思のない断層が原因だからと納得がいくものでもなかろう。古代人はそこを「神だから」と納得しただろうか。天武十三年の「或る人」は、背後に「神」という人格のようなものを見いだすのに、その神の意志までは実は語らない。言われるのは、人畜を殺し、せっかく作った田畑を損ない、一方でこれから住めるかも知れない土地を生み出したという地震の両面であり、要は人間の思惑や利益不利益と無関係に起こったことだと古代人も思っているのではないか。我々を超越した原因というものを、神が島を造ったと収めたのなら、その冷徹さなり諦念なりにおいて、私たちの物理的説明と余り変わらないのではないかとも思う。古代との接点はなお探り得るし、それは私たちの現代を知ることと同義である。

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