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日本語日本文学科

2004.04.30

絡繰り機械と、魔法の手|佐野 榮輝|日文エッセイ7

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第7回】2004年4月30日
絡繰り機械と、魔法の手
著者紹介
佐野 榮輝(さの えいき)
書道担当

書の実技・理論を通して多様な文字表現を追求しています。


書道の授業では学期ごとに、半紙作品を糸綴じにして提出しています。簡単な「四目綴(よつめとじ)」から始めて「康煕綴(こうきとじ)」や「亀甲綴(きっこうとじ)」「麻葉綴(あさのはとじ)」とグレードを上げていきます。糸は布団糸や刺繍糸などを用いますが、近年、糸を購入しても、束ねてあるままで、巻き直さずに使おうとする学生が目立ってきました。当然糸は絡まり、使い物にならなくなります。
裁縫や編み物が家庭から随分遠のいたことを実感します。
かつて、子供の両手は母親にとって、糸や毛糸を巻き直す際の重宝な絡繰り機械でした。束ねたままの糸を両手に引っかけて、母が糸を巻き取る速度に合わせて両手を数センチ左右に動かし続ける、ただそれだけの機械です。そして母の手は魔法の手。その手は絡繰り機械が夢を見ている夜更けに、セー
ターに手袋、浴衣や寝巻、布団や雑巾と、何でも創り出したのです。もちろん、おいしい料理も、です。
ですからその仕事を命じられれば、外ではどんなガキ大将でも、母にはしぶしぶ両手を差し出さざるを得ませんでした。絡繰り機械は、魔法の手の前では絶対服従でした。

この、糸を巻き取る時、絡繰り機械の両手の動作を何というのか、長い間気にかかっていましたが、つい最近友人のご母堂を通じて教えて頂きました。「かせくり」と言い、今では「かせくり器」というものも販売されているのだそうです。辞書で確かめてみると、この語自体は『広辞苑』や『日本国語大辞典』などに立項されていませんが、紡いだ糸を巻く器具を「かせ(漢字は木偏に上下、以下□)」、かせからはずした糸を「かせいと(□糸あるいは綛)」と載っています。「かせくり」は「かせ糸を繰ること」の意でしょう。絡繰り機械を持たない母親は「かせ車」を使うこともあったようですが、それさえ無い家庭では、卓袱台をひっくり返してその脚を代用することもありました。さすがの魔法の手も「猫の手も借りたい」心境だったことでしょう。
そのような光景が多くの家庭から消滅したことは、私個人の懐古趣味に過ぎないかもしれませんが、一を失うことは無限級数的に失うことだったのだと思わずにはいられません。一つの文化が消滅することは、ひいては文明までもが犯されていくことなのではないのか。モノは創り出すのではなく買うもの、捨てて買い換えるもの。モノの価値観がすっかり変わってしまいました。便利になった代償の大きさを改めて問い直さなければなりません。
雑巾を絞れない、鉛筆や箸を正しく持てない子供が増えたと報じられてから、もう既に長い年月が経ちました。食卓での姿勢が悪いのは学校給食で使われた「先割れスプーン」が元凶だと非難の声が挙がったこともありました。

そして現在は、親指一本で文字を送信できる社会に突入し、片時もケイタイを手放せず、右手に箸、左手にケイタイと、家族の視線が交錯しない、無言の夕食が問題になっています。目の前の家族よりも、メールで繋がっている友人との連帯感が優先する生活。

誇大妄想かもしれませんが、人類が長い長い時間をかけて築き上げて来た文明―もはや文化と呼べる領域ではない―とは、全く別の文明社会が待ち受けている予感がします。総消費貴族化を達成したジャポニカ種のホモ・サピエンスは手や指や舌が、おそらく脚も、退化して、将来どのような姿形に進化していくのでしょうか。

便利になることは人々の夢でした。今後もさらにその追求は止むことなく続けられることでしょう。私自身、その恩恵を享受している紛れもない一人です。

しかしそのことによって、私たちは知らない間に機械化・画一化・大衆化されたモノの中に埋もれ、母は魔法の手を失って、その代償として、絡繰り機械の存在を消し去り、物を大切に扱う心を、買い換えれば済むもの、「まがいもの」「にせもの」に慣れさせ、「ほんもの」を追究する精神と肉体の存在を育むことを忘れて来てしまったのではないのか。これから母になる人たちにとって、もはや魔法の手は不要の器官となるのでしょうか。

人類が発明した漢字と毛筆は原初からほとんど進化しないか、変化してもその度合いは千年一日のまま今に至っています。その文字と筆端に生涯を賭けた私としては、和綴じ実習での実態からこのように空想を巡らしてしまうことがあるのです。

でも、悲観ばかりしてはいません。一度は失敗しても、経験を重ねるごとに、すばらしい出来映えの糸綴じ本を作り上げ、中には自ら創意した綴じ方をする学生もおります。
手間をかけて「ほんもの」を作り上げる喜びを知ったならば、「まがいもの」「にせもの」を見分ける力を養うこともできると確信しています。糸綴じ本を完成させた後の学生の笑顔は、達成感で美しく輝いておりますから。

きっと、今の、自分では何も創り出さない「文明」を見直し、魔法の手は蘇り、そして多くの絡繰り機械を育む......であろうと。

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