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日本語日本文学科

2003.11.30

純文学と大衆文学|綾目 広治|日文エッセイ1

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第1回】2003年11月30日
純文学と大衆文学
著者紹介
綾目 広治(あやめ ひろはる)
近代文学担当

昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。


日本では明治以降の文学を近代文学と言いますが、その近代文学を大きく分けると純文学と大衆文学の二つに分けることができます。純文学とは、国語の教科書にも載っている作家たち、たとえば夏目漱石や芥川龍之介などが書いた、いわゆる芸術性が高いとされている文学作品のことを言います。それに対して大衆文学というのは、今の言葉で言えばエンターテインメントの文学で、面白い読み物を指しています。文壇の賞である芥川賞が純文学の新人賞であり、直木賞は大衆文学を対象にしていることは、よく知られています。

長い間、純文学の方が大衆文学よりも知的に高級である、というふうに思われてきました。たしかに、一般に純文学と言われているものの方が少し〈難しかった〉ことは事実です。また、教科書にたくさん採用されていることからわかるように、純文学の多くは〈真面目〉な文学でもありました。近代文学の研究もこの純文学を対象としてきました。では、大衆文学のすべてが単に面白さを狙った文学であったり、あるいは不真面目な文学だったかと言うと、そんなことはありません。それに、発行された冊数、読まれた冊数では、圧倒的に大衆文学の方が上です。ではなぜ、大衆文学は研究や教科書で無視されてきたのでしょうか。そこには近代日本の何か特殊な事情があるのでしょうか。

さらには、研究者や一般の人たちが思っているほど、純文学と大衆文学との区別は、はっきりとあるのでしょうか。そういう疑問も出てきます。たとえば夏目漱石の『こゝろ』は、前半に謎が提示され、後半にその謎が明らかにされるという構造です。谷崎潤一郎の『春琴抄』は、春琴の顔に熱湯をかけたのは誰か、という問題がテーマと密接に関わるものとなっています。新しいところでは、村上春樹の『羊をめぐる冒険』は<羊>の謎とその解明をめぐる話と言えましょう。つまり、これらは、大衆文学の一大ジャンルである推理小説の方法を取り入れた、純文学の名作と言えるのです。実質においては、思われているほどには純文学と大衆文学との区別というものは、ないのではないでしょうか。

このような観点から、本学科では従来の狭い枠組みに捉われることなく、近代文学の研究を推し進めていくことが大切なのではないかと考えています。したがって前年度には、江戸川乱歩の推理小説や中里介山の時代小説である『大菩薩峠』を授業で取り上げました(残念ながら子母沢寛の『新選組始末記』を取り上げることはできませんでしたが、近いうちに新撰組を扱った時代小説についても講義したいと思っています)

※ 画像は江戸川乱歩『D坂の殺人事件』(『本の友社 復刻版 新青年』より転載)

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