• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2015.11.01

「おもやい」考|木下 華子|日文エッセイ145

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第145回】 2015年11月1日
【著者紹介】
木下 華子(きのした はなこ)
古典文学(中世)担当

平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。
 
「おもやい」考
        
「おもやいで食べよう」
 先日、東京で、大学1年生の頃からの友人と食事をしていた時のことである。2人ともかなりお腹いっぱいだったため、デザートプレートを1つ頼んでシェアすることにした。1つのデザートを分け、それぞれが取り皿によそって食べるタイミングで私が言った言葉は、「おもやいで食べようね」。友人はきょとんとして、「おもやいって何?」。はじめて自覚したのだが、私が使っている「おもやい」は方言だったらしい。
実際、大学の同僚やゼミ生に尋ねて回ったところ、誰も使っていない。
 もともとの形は「もやう(催合う)」という動詞であり、その名詞形「もやい」に「お(御)」が上接して「おもやい」となったものだ。意味は、共同で何かをする・何かを共有するといったところだろうか。今回のケースでは、「おもやいで食べよう」=「一緒にデザートを共有して食べよう」となり、人数は2人なので「半分こする」ことになる。
 さかのぼれば、江戸時代から使用されていた古語「もやふ」であり、『日本国語大辞典』では1700年代の用例を確認できる。古語が方言として生き残ったものだろう。
 この語は、道具や土地などにも使う。「はさみをおもやいで使う」は、その場にいる者で1本のはさみを共有して使うこと。「もやい傘」ならば相合い傘だ。つまり、その場にいる者や一定の範囲の者たちで共有する・シェアするというのが、「おもやい」という語の本分だろう。上記の例ならば、「半分にする」ではなく「半分こして一緒に食べる」。「分ける」ではなく、「ともに分かち合う」ところに重点がある言葉・行為だと言えよう。
           
方言バイリンガル
 私は福岡県の出身である。大学から東京に出たので、福岡で18年、東京で17年、そして岡山は5年目となる。今回驚いたのは、「おもやい」が方言だったことではない。一つ目の驚きは、東京に出て以来20数年間、私が「おもやい」という言葉を目立った形で使っていなかったこと。二つ目は、今頃になって(福岡を離れて20余年だというのに)、よその土地で「おもやい」が飛び出したことだった。
 地方出身者が東京に出ると必ず受ける洗礼の一つが、言葉や習慣が通じない(で笑われる)だろう。このリレーエッセイの中でも、佐野榮輝教授が始筆・起筆を意味する岡山の方言「うったて」について紹介しているが(No.27「ウッタテ考」)、「うったて」をよその土地で使って、「それなに?」と笑われた場合を考えてみてほしい。当たり前に使っていた言葉や習慣が通じないというのは、少なからず衝撃である。マクドナルドの省略形が「マック」(東日本)か「マクド」(西日本)かくらいならば、大学のクラスでも双方に多数派でよいのだが、自分だけが使っている方言の場合、多勢に無勢となってしまう。さらに、地方出身者にとっての「東京で言葉が通じない」体験は、都会に出た田舎者という自意識をそれなりに刺激する。いつしか、少数派は声なき少数派(silent minority)となり、自然のうちに方言は出なくなるのである。
 実際、東京に出て一ヶ月ほどで、私は標準語っぽい言葉を話すようになり、方言は家族や故郷の友人と話す時のみになってしまった。これは、無理に言葉を変えているのではなく、無意識に標準語と方言の回路が入れ替わるというものらしい(例えば、東京や岡山にいる時は、福岡の方言で話す・考えることのほうが難しい)。それに気付いてからの私は、自分をバイリンガルと称してこの状況を面白がっているが、なるほど、この20数年、「おもやい」が目立つ形で出なかったわけだ。おそらく、私は、家族や同じ方言を話す友人たちの中では「おもやい」を使っていたのだろう。そして、方言の自覚もなかったというのに、東京その他、故郷ではない土地にいる際に使っている言語回路(標準語)に「おもやい」は存在しなかったらしい。よその土地で使わなければ、わからないと言われることもない。だから、「おもやい」が方言だと気付かなかったのである。

言葉と安心
 では、どうして今頃になって、「おもやい」が飛び出したのだろう。しかも、私にとっては、大学以来の友人との会話=標準語の言語回路を使っている場においてである。
 これには、岡山で暮らして5年目ということが関与しているような気がする。私は岡山の方言を話すことはできないが、同じ西日本だからか、原因・理由を表す「から」が「けん」になるなど、自分が育った福岡の言葉と共通するものも多い。授業でも会議でも、仕事上では標準語の言語回路を使うが、岡山で暮らし、岡山の言葉に囲まれていることで、標準語の言語回路が西日本の言葉に変化し、故郷の言葉と近接してきているのだ。実際、この1~2年、授業中に故郷のアクセントが出てはっとすることが少なくない。東京では起こらなかった現象である。東京にいる間、完全に2つに分かれていた私の言語回路は、一致することはないものの、少しずつ重なりはじめているのではないか。

 このような変化は、とどのつまり、私がこの場所で安心して心地良く暮らせているからこそ起きるのだろう。福岡発東京経由の異邦人をあたたかく受け入れ、馴染ませてくれる現在の環境と周囲の人々に感謝するとともに、私の言語回路がこの後どのように変化するのか、興味深く思っている。

*写真の備中国分寺は、吉備路サイクリングロード沿いにあり、総社駅から自転車で30分程度です。吉備路サイクリングロード(全長約21km)は、岡山県総合グラウンド(本学の北)と総社市スポーツセンターとを結ぶ自転車・歩行者専用道路で、道路の途中には吉備津神社他、様々な史跡や古墳があり、豊かな自然とともに岡山の歴史を楽しむことができます。

日本語日本文学科
日本語日本文学科(ブログ)

一覧にもどる