• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

英語英文学科

2016.09.28

敗れし者のその後、仏日比較 (承前)│梶谷二郎

Twitter

Facebook

英語英文学科

エッセイ

フランスの敗者の底抜けの明るさと比較すると、日本の敗者は、暗い。更に悪いことに、日本の敗者は怨霊化する傾向にある。怨霊が自分の周りに存在することを日本人が意識し始めたのは、太古の昔のことであろうと思われるが、その後も日本人は怨霊の存在に怯え続ける。そうした日本人の怨霊観は現代の研究者の心を捉えて離さない。梅原猛『隠された十字架』がその典型である。

飛鳥時代以降も敗者の怨霊は跋扈し続ける。上田秋成の『雨月物語』がそれである。その中で「白峰」と「吉備津の釜」は、それぞれ舞台が讃岐の国と吉備の国であるという点で興味深い。「白峰」は『山家集』を、また「吉備津の釜」は『梁塵秘抄』を下敷きにして書かれたもので、それぞれが異なる怨霊観で描かれている。

西行は崇徳上皇と面識があり、讃岐の白峰に配流となった後も、崇徳上皇への西行の敬愛は続く。しかし、西行が白峰を訪れるのは、崇徳上皇が薨去した後のことで、その旅の経路は『山家集』に記されている。(その足跡を偲んで、道中立ち寄った玉野市の渋川海岸には西行の歌碑と銅像が設置されている。)

人間の生の儚さを述べることを趣旨とする『山家集』に対して、『雨月物語』では崇徳上皇の御霊は怨霊として描かれる。

 「其の形異なる人の、背高く痩せおとろえたるが、(中略)新院の霊なることをしりて、地にぬかずき涙を流していふ。」

なぜ崇徳上皇の御霊は怨霊として描かれるのか。それは崇徳上皇薨去後の御霊信仰に起因すると研究者は書いている。その説では崇徳上皇の御霊信仰の頂点は『雨月物語』の百年後の慶応四年にあるとされる。

「崇徳上皇の白峰御陵は、讃岐の坂出にあるが、慶応四年(一八六八)八月二十六日、勅使がその御陵のまえで、明治天皇の宣命を読みあげた。(中略)呪詛して憤死した崇徳上皇の霊が、奥羽諸藩に味方して官軍をなやましたとしたら、それこそ由々しい事態になるかも分からないと、朝廷は判断した。」 (谷川健一『日本の神々』、1999年、岩波新書、p.146-147)

「吉備津の釜」の怨霊は「白峰」の怨霊とは異なる。「吉備津の釜」の制作意図は、鳴釜神事は古代の昔から決して誤ることがないという神の神慮の無謬性にあり、それが神に対する人間の恐れを増幅している。「吉備津の釜」に我々が恐怖観をいだく真の理由は『梁塵秘抄』が吉備津宮の神威をこのように表現していることにある。

 一品聖霊吉備津宮  新宮  本宮内の宮  はやとさき 北や南の神まらうど  艮御先は恐ろしや     

「白峰」は、同族間の権力闘争の敗者は時空を超えて怨霊となり続ける御霊信仰としての特徴をもつ。それに対して、吉備津宮は「恐ろしや」に止まる。吉備津彦命が退治した温羅(艮御先)の首は、異民族(大和朝廷)によって征服された恨みを怨霊には変えず、釜を鳴らして吉凶を占うことで人々に益をもたらしている。「恐ろしや」ではあるが、怨霊にならない温羅を見ると暗さも多少和らぐ気がする。

一覧にもどる