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日本語日本文学科

2018.12.01

"遍在する"ということ|川﨑千加|日文エッセイ 182

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日本語日本文学科

日文エッセイ

【著者紹介】 川﨑 千加(かわさき ちか)

 司書課程担当 図書館も使った情報リテラシー教育を研究しています。

"遍在する"ということ

1.はじめに

 情報技術はコンピュータの小型化,高性能化,ネットワーク化によって日常の生活の中に溶け込んでいる。誰もがスマホなどを持ちいつでも,どこでもネットに接続され,スマホなどに話しかければAIが答えてくれるような社会をユビキタス(ubiqitous)社会という。このユビキタスという言葉の語源は,ラテン語の"ubique"であり,もともとの意味は神が同時に,どこにでも"遍在する"という意味だそうだ(注1)。

2.宣教師シドッティ

 豊臣秀吉の伴天連追放令が出された1587年以降,異国の宗教であるキリスト教は徹底的に弾圧を受け,その後200年以上にわたり禁教となった。しかしキリシタン弾圧後,すでに日本への宣教師も途絶えて100年近くになって,鹿児島県の屋久島に辿り着いた一人の宣教師がいる。シドッティ(Giovanni Battista Sidotti, 1668-1714)である。
 彼はイタリアのシチリア島パレルモ出身で,ローマで学びローマ教皇庁法律顧問となったほど優秀な司祭だった。ローマ教皇による日本布教の復活の命を受け,1708 年8月に日本を目指してマニラを出航し,同年10月11日大隅国屋久島に上陸したとされる。シドッティは教皇の命を受けてから日本のことを独自に学び,上陸時は和服帯刀の姿であったとされている。

写真1『西洋紀聞』上の表題紙(国立国会図書館デジタルコレクションより)

写真1『西洋紀聞』上の表題紙(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 シドッティは屋久島に上陸後,村人に助けられ長崎へ連行されるまでの約2週間ほど,屋久島の南西部にあった恋泊村(こいどまり村)に滞在したようである。屋久島でのシドッティと村人との交流については,屋久島在住の古居智子の『密行 : 最後の伴天連シドッティ』(新人物往来社, 2010)に,島人への温かい視点を交えて描かれている(注2)。シドッティはその後,1709年9月に長崎から江戸へ送られ,来日した目的であった宣教することは許されず,切支丹屋敷で47歳で病死することになる。
 シドッティの生涯が伝えられる背景には,新井白石が著した『西洋紀聞』(注3)の存在がある。当時の6代将軍徳川家宣の特命を受けた白石がシドッティの取調べを行ったことから本書が書かれたとされる。シドッティは日本での宣教を願う強い意志を持ち,志を持ち続けたが,白石はシドッティの知性と教養に大いに興味を持ち,鎖国下にあった日本で誰も知りえなかった諸外国のことを聞き取ったようである。『国史大辞典』(吉川弘文館)によると,本書は上中下3巻からなり「ヨーロッパをはじめ海外事情とキリスト教教義の説明および批判を平易な国文で書いた名作」とされている。
                                  
3.屋久島カトリック教会と遍在する聖母マリア

 さて,シドッティが屋久島に滞在した期間は約2週間程度だったと推測されているが,シドッティが上陸した恋泊があった小島地区に屋久島カトリック教会(通称シドッティ記念教会)がある。この教会はシドッティの研究から彼に憧れ,屋久島を訪ねたコンタリーニ神父が祈念して1988年に建設された。

 屋久島は周囲約132キロメートル,面積約504平方キロメートルの円形をした島である。島のほぼ中央には,九州の山岳の最高峰である宮之浦岳(1,936メートル)に,1,000メートルを超える山岳が連なっている。ほぼ山と森林の島と言ってもよく,海岸部からすぐに山に繋がるように,世界自然遺産となった深い緑の原生林が広がる。海岸沿いは砂浜の地帯もあるが,島の周囲は険しい崖がそのまま海に落ちているようなところが多い。そして屋久島の中心部の山々は隆起した巨大な花崗岩の塊である。そのせいかろうそくのような形の岩や豆腐を切った時のようにきれいに切り割られた岩が並ぶなど,奇岩といえるような形の山々も見られる。

写真2 尾之間三山の山並み

写真2 尾之間三山の山並み

 シドッティの教会がある小島からは尾之間三山が臨める。先述の『密行』には次のような下りがある。作者である古居氏がコンタリーニ神父を訪ねた時,神父が尾之間三山の1つである耳岳を指し,「これを目にした時,シドッティは非常に感動したことでしょう」と言う。その岩山が神父の目にはキリストを抱いた聖母マリアの胸像に映るのである。

写真3 耳岳に現れた聖母子像

写真3 耳岳に現れた聖母子像

「これを目にした時,シドッティは非常に感動したことでしょう」と言う。その岩山が神父の目にはキリストを抱いた聖母マリアの胸像に映るのである。

「左の丸い岩が聖母マリアの横顔で,額に深く頭巾をかぶり,憂いをおびた様子でやや下向きに首を傾げている。そこからひとつ下がったあたりに見える一回り小さめの丸い岩が成人のキリストの頭で,聖母マリアの胸に抱かれるように顔を横に向けている。マリアの衣は襞うつ三角形を作って,山肌の谷に溶け込んでいる」(古居, p.70)。

 コンタリーニ神父は命がけでここに上陸したシドッティも,この聖母マリアの姿を見たはずであると言う。古居氏は 「山頂の巨石は,ちょっとした光の具合や視点のずれによって,異なった印象を放って見える」(古居, p.70)としながらも,確かに聖母子の姿を見いだすこともできるとしている。

4.ユビキタスとAI

 こうした自然の造形物や身近なものにそこにはない別のものをイメージするような,「生命のないものにも人間と同様な感情や表情があると知覚すること」を心理学の用語では「相貌的知覚」と言い,「幼児や原始人のように,自我と環境の未分化な状態で生ずる知覚」とされる(注4)。また,日本人は古代から文学や茶の湯の世界などでも身近なものを別のものに「見立て」て愉しむ感覚を持ってきたと思う。何かに見立てることでそのことは,より大切なものとなる。神ではなくコンピュータが遍在する社会となっても,いつでもどこでも神の姿を見ることができるのは,AIにはない人の"想像力"と"思い"によるのではないだろうか。

注1)『羅和辞典』改訂版, 2009,研究社

注2)本書はシドッティの生涯を綿密な調査によって描いているが,2014年に東京文京区の切支丹屋敷跡から発掘された遺骨がシドッティのものと確定したことを受けて,2018年に増補版が敬文社から出版されている。シドッティの小説としては,太宰治の『地球図』もある。

注3)標題紙の画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「西洋紀聞.上巻」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761232 2コマ目 右ページの標題紙部分。自筆本三冊が内閣文庫(国立公文書館)に現存する。筆者校訂の『新訂西洋紀聞』(『東洋文庫』113)のほか,岩波文庫でも発行されている。

注4)『日本国語大辞典』(小学館) オンライン版より
 

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