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日本語日本文学科

2021.01.01

宮沢賢治が出会ったプジェー神父の窮民救済活動 ――本学園ゆかりの「まいかい高等女学校」から盛岡への支援―― |山根 知子|日文エッセイ207

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日本語日本文学科

日文エッセイ


【著者紹介】
山根 知子(やまね ともこ)
近代文学担当
宮沢賢治・坪田譲治を中心に、明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。


宮沢賢治とプジェー神父

 宮沢賢治(1896‐1933)は、法華経信仰をつらぬいた仏教徒ですが、生涯たいへん多くのキリスト者との交流を行ったことがわかっています。作品でも童話「銀河鉄道の夜」を読んだことのある方は、キリスト者や十字架が登場していることにお気づきでしょう。さらに「銀河鉄道の夜」第三次稿では、「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という言葉があり、賢治がキリスト者に抱いていた思いが感じられます。
 私は宮沢賢治の仏教信仰が拡がり深化した過程におけるキリスト者たちの影響について研究を進めていますが、賢治は幼少期から晩年まで過ごした地元の花巻や、盛岡中学および盛岡高等農林学校の学生時代を過ごした盛岡で、キリスト者に次々と出会っているのです。それらのキリスト教は、カトリック、プロテスタント(無教会・救世軍・バプテスト教会)、ロシア正教と、多彩であることに気づきます。さらに賢治の信仰思想の深化において、キリスト者から受けた影響には深い意味が見出され重視されるべきものであることが再認識されています。
そうしたキリスト者のなかで、今回はカトリック司祭アルマン・プジェー神父について取り上げたいと思います。
 賢治は、盛岡天主公教会(カトリック教会)のプジェー神父が登場する短歌四首を残しているほか、晩年には文語詩にも詠んでいますので、好感をもっていた人物としての認識を持っていたことは明らかです。ただし、賢治とプジェー神父との直接的な交流については、これまでの研究でも明らかになっていません。
 そこで、同時代資料の調査のなかで、当時のカトリックの機関誌『声』に掲載されたプジェー神父の活動について伝えられた紙面を興味深く調べています。そこには、プジェー神父が『声』紙面を通して盛岡から全国への飢饉救済の呼びかけをしている記事があり、それに岡山天主公教会と「まいかい高等女学校」とで応えて救援募金活動をして送金をしたという記事を見つけ、その事実に感銘を受けました。
 ちなみに、この「まいかい高等女学校」は、幼きイエズス会のシスターたちが関わって1886年に創立された岡山市における最初の女学校「私立岡山女学校」が1889年に改称された学校でした。さらに、「まいかい高等女学校」は1911年には「清心高等女学校」と改称されます。その後、1924年にはその学校経営が幼きイエズス会から本学園の設立母体であるナミュール・ノートルダム修道女会へと引き継がれることになります。つまり、この記事に登場する「まいかい高等女学校」は本学園とつながりのある女学校なのです。
 『声』の記事から、そうした本学園とつながる出来事をお伝えしたいと思うと同時に、こうしたプジェー神父の窮民救済活動に対する姿から賢治の思いも推測できるのではないかと考えています。

プジェー神父の窮民救済活動

 フランス出身のアルマン・プジェー神父(1869‐1943)は、パリ外国宣教会司祭として来日し、盛岡の四ツ家天主公教会に25年間在任していました(1897‐1922)。一方、花巻で育った賢治は、盛岡中学、盛岡高等農林学校へと進学したことで、1909年から1920年頃まで過ごした盛岡で、プジェー神父に出会っています。賢治は、中学校時代に短歌の創作をはじめ、高等農林時代であった1916年には、次のような短歌をつくっているのです。

 プジェー師は/ 古き版画を好むとか/ 家にかへりて/ たづね贈らん

 プジェー神父は日本の古美術品に造詣が深く、浮世絵のほか刀剣の鍔(つば)の蒐集・研究でも有名で、賢治自身も浮世絵版画の蒐集を始めていたことから、趣味を共有する芸術家肌の神父への親しみを表現しています。
 

プジェー神父(※)

プジェー神父(※)

「まいかい高等女学校」と岡山天主公教会(カトリック教会)の支援

 さて、当時のカトリックの機関誌『声』(1906年3月)には、プジェー神父が、凶作によって苦しむ窮民救援のため、緊急の特別寄稿「公教慈善家諸君に告ぐ」と題して、全国に協力を呼びかけた文章がありました。
 

『声』1906年3月

『声』1906年3月

 これに対して、翌月4月の『声』の記事「岡山通信」には、「近来岡山公教会の活動は大に見る可きものあり」とされ、信者たちによって「同市弓之町玫瑰(まいかい)高等女学校広間に於て飢饉地救済義捐募集の演伎会なるものを開催」したことが報じられています。なお、この1906年頃には、「まいかい高等女学校」は、カトリック岡山教会のある弓之町(現天神町)にありました。この演伎会は3日間開催の予定でしたが、「非常の好人気」により急遽2日延長して計5日間にわたり、毎夕500人以上の入場者があって散会は毎夜12時を過ぎたこと、凶作地をテーマとした演芸では「感動の余りに舞台へ金銭を投じて救済を求むる」様子であったことが記されています。入場者には「学生等」がいたことが書かれており、女学校生徒も集っていたことがわかります。
 この年は、賢治が盛岡で暮らす前の時代でしたが、プジェー神父を知るようになった時代でも、凶作による窮民救済活動は引き続いており、賢治はプジェー神父の奮闘の姿に接したものと思われます。そして、同じく『声』の次号の記事「盛岡通信」では、プジェー神父の救済活動について、蒐集していた古美術品をこの大凶作のさなかにあって「全部売却して窮民救助の費用に」投じたとあることから、こうした姿を知っていたであろう賢治の先の短歌には、古美術品への研究に熱心でありながらも執着はせず真に大切な愛の使命に身を投じるプジェー神父へのまなざしが感じ取れます。
 のちに賢治は、花巻農学校教師時代に農業を担う若者を育成する教師の経験をし、依願退職後は自ら農民となって「羅須地人協会」を創設して、凶作と貧しさを乗り越える農民生活の向上に生涯を尽くしています。そんな賢治は、凶作のなかで苦しむ人々の救いのために身を投じる生き方をした主人公の物語「グスコーブドリの伝記」を書きました。
 そのような賢治は、祈りのうちに愛の教えを実践し窮民救済の活動を進めるプジェー神父の信仰と使命感に「涙がこぼれる」ような共感をもったのではないかと想像されるのです。

 さはやかに/ 朝のいのりの鐘鳴れと/ ねがひて過ぎぬ/ 君が教会  宮沢賢治 
 

プジェー神父が設計監督したカトリック四ツ家教会 (賢治が盛岡中学4年の1912年11月に献堂) (※)

プジェー神父が設計監督したカトリック四ツ家教会 (賢治が盛岡中学4年の1912年11月に献堂) (※)

(※)は、『図説宮沢賢治』(河出書房新社 1996・3)より 

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