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日本語日本文学科

2007.11.01

絵文字|星野 佳之|日文エッセイ49

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第49回】 2007年11月1日

絵文字
著者紹介
星野 佳之(ほしの よしゆき)
日本語学担当
古代語の意味・文法的分野を研究しています。

最近ひょんな事から若い友人が増えた。仕事柄若者は常に周囲にいるが、教員と学生といった言わば「職場関係」と関わりのない人だと、年代は同じでも随分と違って見えることを実感する。当たり前の事ながら我が学生諸君も、きっとバイト先やサークル活動などでは別の頼もしい顔を見せているに違いない。

その若い友人達からのメールで世代差を思わされるのは、やはり絵文字の使い方である。その何と自由なことか。「お疲れ様です☕」という文など、珍しい方言を聞いた以上に驚いたものである。私がこれを理解するためには、「お疲れ様 → 仕事は終わり → リラックス → コーヒー →☕ 」といった数次の変換過程を必要とするが、そこを彼らは ☕ まで一跨(また)ぎである。本人達には当たり前のことなのだろうが、発想の自由さを思うところである。若者諸君、おじさんはこんなことにも感心するのですよ。

とは言いながら、上のようなモタモタしたプロセスは経ても、最終的に意図が読み取れるのはなぜだろうか。それはこの絵文字の活用術とても、その「骨法」というべきところは結局「言葉」の常套手段と変わらないからだろうと思う。具体的に例を出した方が分かりやすいと思うので、先日「日本語学演習Ⅲ」という授業で学生達と考えた「かかる/かける」という語を取り上げて説明してみよう。

1 壁に絵をかける。/壁に絵がかかっている。
2 この一球に選手生命をかける。/この一球に選手生命がかかっている。
3 部下にねぎらいの言葉をかける。/上司からねぎらいの言葉がかかる

どれも「普通の」用例だし、それぞれ関連がありそうに見えるが、しかしそのつながりを説明しろといきなり言われても、少し返答に困るのではないだろうか。

1のような「かける/かかる」で重要な要素となっているのは、「(全体でなく)一部で支える/支えられる」ということであると思う。絵の四隅をピンでとめたり裏面全体に糊を塗ったらそれは「貼る」であって、「かける」とは言えないからである。絵の重み全体を支えるのが僅かな一点に過ぎない、この「大小のアンバランス」が1のカギであるが、この特徴は2も共有していると思われる。一球が選手生命を左右するとは大袈裟な話だが、この大袈裟さがないと「かける/かかる」は実は使えない。現に、「日々の練習と精神的鍛錬と健康管理と競技研究の総体に選手生命はかかっている」と言ってみると、内容は正しいだろうに何とも言いづらい。選手生命とそれを支えるものが釣り合ってしまうからである。2をアンバランス故の「不安定」の方向に突き詰めれば「賭け(ギャンブル)」という語に行き着くだろう。一方3であるが、「ねぎらいの言葉、一言、挨拶」なら「かける/かかる」ことができるが、「転勤の命令をかける」とかいった、重要な内容の伝達には不向きである。これは先の「大小のアンバランス」の「(大)小」により注目する形で、やはり1にあった特徴が尾を引いていると思われるのである。この仲間には、「飛沫(しぶき)がかかる」のような例が入るだろう(同じ水でも「津波」は「かから」ない)。更にはいわゆる「補助動詞」の「食べかける/かかる」も、この「(大)小」を「(行為の)一部」と転換して活用したものの可能性がある。

授業ならこれからのところを切り上げることにして、ここで確認したいのは、「普通」の語の諸用法を繋ぐのが、一つのイメージからの連想と転換に他ならない、ということだ。「一点で全体を支える不安定さ → 小事が全体を動かす大袈裟さ」とか、「... → 全体をぬらすほどではない小さな濡れ方」とかいうように。そして私達が実際に持っている用法の前には、人間のことであるから、定着することなく消えていった連想の「勇み足」も数多くあったに違いない。

さて本題の絵文字、☕ は携帯電話会社によれば「喫茶店」のマークだそうだが、「お疲れ様です☕ 」では連想をバネにこの設定を大きく跳び出している(携帯会社が名詞として用意したものを終助詞に転換したと言ってもよい)。既に絵文字は単なる絵でも記号でもない、まさしく「文字」の域に踏み込んでいるのかもしれず、興味深い。果たしてこれは一過性の徒花(あだばな)で終わることになるのか、それとも書き言葉の可能性が広がる画期に我々は立ち会っているのだろうか。いいものを作るときにはそれ以上に失敗品を作らざるを得ない非効率が人間と文化の宿命だろうから、若い人達にはどんどん絵文字の試行錯誤を重ねて欲しいとさえ思うのだが、こう言うのは自分が文化創造の第一線世代にはもはや属していないことを実感するようで、その点は若者が少し羨ましくもある。

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