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日本語日本文学科

2007.05.01

坪田譲治の<ともしび>をめぐって|山根 知子|日文エッセイ43

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第43回】 2007年5月1日

坪田譲治の<ともしび>をめぐって
著者紹介
山根 知子 (やまね ともこ)
近代文学担当
宮沢賢治・坪田譲治を中心に、明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。

最近、岡山市島田本町出身で近代日本児童文学界の礎を築いた作家坪田譲治の文学を研究するなかで、全集などに未収録の作品の調査収集をしています。そこで譲治の本質に触れる思いのするエッセイを見つけてから、そこに描写された譲治の心象が心に焼きついて離れなくなりました。それは、随筆「故里のともしび」(『故里のともしび』泰光堂 昭和二十五年十一月)でした。

ここには具体的には、本学からも近い島田から「三四里はある」という北に仰ぐ金山(かなやま)山頂のお寺金(きん)山寺(ざんじ)の燈明が、遠い山の<ともしび>として描かれているのです。のちに東京暮らしをするようになった譲治は、五十幾歳のある日、西の方の旅行からの帰りに、今回は立ち寄らないことにしていたふるさと岡山をちょうど深夜に通る汽車のなかで、この遠い山の<ともしび>を見つけ、その<ともしび>になつかしく眺め入りながら、「幼年の私、少年の私、青年の私というその時その時の私が一時によつて、その灯を見つめているような気がしました」という実感を得ています。

そうして譲治は、「汽車が岡山駅につき、岡山駅を出て、旭川の鉄橋を渡つて、二十町ばかりも行く間、その灯をさがし求めて眺めつづけました。その後はまたその灯について思出を心の中にさがし求め、汽車が姫路についたのも知らないでいたような有様でした」という体験をして以来、この<ともしび>をめぐる体験ひとつひとつが心象によみがえり根づいていったということです。その後も「金山の灯火。現在、私は東京の家にいても、何だか幼少年の頃の夜のヤミの彼方の方に、遠山に輝く星のような灯が一つ見えるような気がします」と、東京に過ごしている譲治の心象に、この<ともしび>が繰り返し映じていることがわかります。

最近は夜も明るい照明がともり、現代人は真の闇を体験することがなくなりました。しかし、現代人の心の闇はとてつもなく深まっています。

譲治の幼少期、いくら目をしばたたかせても何も見えなかったという夜の暗闇は、そうとう深いものであったでしょう。そうであるだけに、いくらはるか遠くてもほんの小さな<ともしび>が見えたときは、どんなにありがたいことであったことでしょうか。譲治によると、金山寺の<ともしび>は、遠足の前の夜など母親に天気を聞いた返事に、「お便所へ行つたら、金山の方を見てごらん。山の灯が見えたら、明日は天気です」という答えが返ってくるというように、島田からは、天気予報代わりにもされ、眺められていたといいます。

そのふるさとの<ともしび>を、譲治は、のちの東京での生活苦の闇のなかでも、踏み迷うことのない羅針盤のような心の拠り所として、はるか遠くに眺めやっていたのです。私は、譲治の「心の遠きところ花静なる田園あり」という有名な言葉も、このイメージから鮮やかに実感できるのではないかと思うようになりました。つまり、たとえ「心の遠きところ」ではあっても、「花静なる田園」という生の根源といえる豊かな心のふるさとが確かにある(、、)という信念にこそ力点がおかれていると思われるのです。

譲治のこの心象は、詩人八木重吉の「うつくしいもの」と題した次のような詩を思い出させます。「わたしみづからのなかでもいい/わたしの外の せかいでも いい/どこにか 『ほんとうに 美しいもの』は ないか/それが 敵であつても かまわない/及びがたくても よい/ただ 在る(、、)といふことが 分りさへすれば、/ああ、ひさしくも これを追ふにつかれたこころ」。ここにも、「ほんとうに 美しいもの」が確かに「在る」のだとわかることによって、どんなに大きな心の拠り所を得られるかが表現されています。譲治は、この「ほんとうに 美しいもの」として、心にふるさと岡山の田園などの光景を追っていたのでしょう。

譲治にとって、こうして幼少期の岡山の思い出を心の中にさがし求めることは、まさに苦しみのなかでも生きるための拠り所として、<ともしび>を追い求めることであったでしょう。そしてまた、譲治が岡山での自身の幼少体験を織り交ぜて執筆し人に伝えようとするときも、どんな境遇のなかにあっても<ともしび>は消えることなく確かに存在するのだという実感を引き出し書きとどめたいという思いによっていたのではないでしょうか。

この<ともしび>を見つけたときの救われた思い、安堵感、そしてまたこの<ともしび>から力を得て前向きに歩み出そうとする心―。現代の闇の中に生きる私たちが譲治の作品のなかに探し求めているものも、心の奥底でそれが「在る」とわかることで拠り所となる<ともしび>であるような気がするのです。

本学附属図書館・坪田譲治コレクションの紹介ページを設けています。是非ご覧ください。

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