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日本語日本文学科

2006.10.02

竜田姫の秋|片岡 智子|日文エッセイ36

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第36回】 2006年10月2日

竜田姫の秋
著者紹介
片岡 智子(かたおか ともこ)
古典文学(平安)・日本文化史担当
文学と文化史の観点から古代文学、主に和歌を研究しています。
 
はじめに
天高く、風爽やかな秋、そんな秋が、まためぐって参りました。小学唱歌に「春はどこから来るのでしょう」という歌詞があるように、いったい熱い夏の後、秋はどこからやって来るのでしょうか。
このように日本人は季節がどこからかやってきて、やがてどこかに去っていくものだという感覚を持っています。そうした四季の到来に対する感性は、古来よりこの日本列島に住まう人々にとって自然に育まれたたものに違いありません。とくに春と秋に対して敏感だったようです。

その結果でしょうか。やがて秋という季節は擬人化され、神格化されることになりました。秋をつかさどる女神、竜田姫の誕生です。
 
竜田神社と風の神
竜田姫とは立田姫とも書きますが、そもそも竜田姫の「竜田」とは、大和の地名です。奈良県の生駒郡三郷町がかつての竜田の地で、竜田姫はその地の竜田神社の別宮に祭られています。それがどうして秋の女神とみなされるようになったのでしょうか。そのいきさつは多少複雑で、かなり文学的です。まずは竜田神社の由来をひもといてみましょう。

竜田神社は風の神として有名で、本社には志那都比古命(しなつひこのみこと)と志(し)那都比売命(しなつひめのみこと)を祭っています。上代語でシナとは坂の意ですが、シナツのツも古い助詞で、現在の助詞の「の」に相当するといわれています。したがって、シナツとは「坂の」という意味になり、それが風の起こる所を示しているものと解されます。文字通り、それらの二神は坂の神であり、そこから起こる風の男神と風の女神にほかなりません。

大風は今でも農業にとって大敵ですが、竜田の風の神は農耕の守護神としてあがめられたのです。歴史は古く、「延喜式」の祝詞(のりと)によると崇神天皇のとき五穀豊穣を祈って本社が創設され、また社伝によると竜田の風神祭りは、天武天皇四年(六七六)のときに始まったといわれています。さらに平安時代には神祇官(じんぎかん)の十九祭の一つに数えられ、四季の運行や風雨の調和、その年の豊年を祈る祭りとして制定されました。天武朝に始まった風神祭は、現在でも六月末から行われる七日七夜の風鎮祭に受け継がれています。このように竜田の神さまは、宮廷からも大切にされた由緒ある風の神、農耕の神なのです。
 
万葉の竜田彦
さて、竜田神社には本社に対して、末社よりも格上の摂社があります。竜田比売(たつたひめ)は、いわゆる竜田神社の別宮である摂社に竜田比古(たつたひこ)とともに祭られているのです。摂社は本社の後にできたようですが、竜田という地名を冠した神名から、地域の人々にとっての神さまだったことがわかります。そこで、実際には摂社の二神の方が古い可能性が生じてきます。

ところで崇神天皇は、なぜ竜田の地に風の神を勧進したのでしょうか。それは、この地の神も風にちなむ神だったからではないでしょうか。また、元からの神が男女の神だったから、国の豊穣を祈る神も同じく男女二神とされたのに相違ありません。いわば地域の神が、国の神に習合さるような状態になったものと思われます。以来、土着の神への関心は希薄になったものの、「竜田彦」と「竜田姫」は、歌枕としての「竜田山」や「竜田川」とともに文学的に命脈を保つことになったのです。

その証しに『万葉集』において竜田彦は、風の神として登場します。

我が行きは七日(なぬか)は過ぎじ竜田彦(たつたひこ)ゆめこの花を風にな散らし

巻九の一七四八番歌です。ここでは、私たちの旅が七日もかかることはないので、その間、どうかこの花を風に散らしたりなさらないで下さいと竜田の神さまに懇願しています。明らかに竜田彦を風の神として捉えていることがわかります。ただし、その風は花を散らす春の風でした。

この他に『万葉集』における竜田の歌は十六首見られ、その中の十四例が「竜田山」を詠んでいます。竜田山を越える道は、大和国から河内国への重要な交通路でした。万葉の竜田の歌は、ほとんどが山越えの歌となっています。そして紅葉よりも桜の花の方が多く詠まれており、いまだ紅葉の竜田というイメージは定まっていないのです。
 
竜田姫と紅葉
いよいよ平安朝になって、竜田姫が登場します。『古今和歌集』巻五の秋歌下の二九四番歌です。詞書に「秋の歌」とあるように、秋という季節そのものが端的に一首の主題として掲げられています。
たつた姫(ひめ)たむくる神のあればこそ秋の木(こ)の葉(は)の幣(ぬさ)とちるらめこの歌の竜田姫は、まさしく秋の女神といえましょう。二句目の「たむくる神」は、旅の無事を祈って手向けをする神、すなわち道祖神のことです。それによって竜田姫自身が旅立つことを表しています。一首の意は、旅立つ竜田姫には手向けをする神さまがいらっしゃるので、秋の木の葉が神へのささげ物として散るの
でしょうという意となります。幣とは、神に祈る時、神前に供えて撒(ま)く物で、当時、小さく切った布(ぬの)(麻や葛など植物繊維の布のこと)や帛(はく、絹の布のこと)、紙などを用いました。散る紅葉を竜田姫の幣に見立てたのです。竜田姫を秋の女神とすることによって、秋という季節が華麗に表象されることになりました。

よく注意すると、この竜田姫は万葉の竜田彦と同様、いまだ土着の神としての竜田姫の面影を宿しています。幣とする紅葉を散らすのは、竜田姫にほかなりません。竜田姫は秋の風の神でもあるのです。

作者は兼覧王(かねみのおおきみ)で、『古今集』の撰者時代の歌人です。撰者であった紀貫之も同じような歌を詠んでいて『貫之集』に入っています。いずれにしても竜田姫が旅する秋の女神であるという伝説は、平安前期の終わり頃、九世紀後半には確立されていたことになります。
 
竜田姫と平城京
ところで竜田姫が秋をつかさどる神とされたのは、竜田山一帯が平城京の西に当たり、「西」は陰陽五行説で「秋」にあたるからだといわれています。それは、平城京からの視点にほかなりません。つまり、竜田姫伝説の誕生の地は、旧都となった奈良の都であったと考えられます。

『古今和歌集』における竜田の歌の中で、最も古いと捉えられる二八三番歌も「平城(なら)の帝(みかど)の歌(うた)」として伝承されている古歌です。

竜田河紅葉乱(みだれ)て流るめり渡らば錦中やたえなむ

竜田川に流れる紅葉が錦に見立てられています。この歌も含めて『古今集』の竜田の歌は十四首で、その中の十首が秋の歌です。しかもすべて「竜田川」の紅葉が詠まれています。このように歌枕としての竜田の季節が秋に固定されるようになったきっかけも、先ほどの五行説が反映されたからであろうと推察できます。

したがって、竜田姫伝説も歌枕の竜田も、揺籃(ようらん)の地はかつての平城京であり、その雅(みやび)を『古今和歌集』が平安の世に文芸復興(ルネサンス)したものと捉えられるのです。

さらに竜田の山から川へのという歌枕の構図は、旅する竜田姫のイメージと重なります。去り行く竜田姫は、山からやってきて、やがて帰っていくという伝統的な神観念の祖形を踏まえたものなのです。日本人にとって竜田姫がなにかしら懐かしく感じられるのは、この女神が普遍的な日本の神の姿を体現しているからにほかなりません。
 
おわりに
なぜ秋をつかさどる神は、女神だったのでしょうか。最後に、それを簡単に述べておくことに致しましょう。『万葉集』以来、秋の木の葉が色づくことを染色にたとえて「染める」と表現しました。一方、染色は古代の女性にとって大切な、しかも専門的な仕事でした。そこで、山を染め、木の葉を染めて紅葉にする神も女の神でなければならなかったのです。秋をつかさどる神としての竜田姫は、紅葉の歌とともに染色の神さまにもなったということになります。

平安中期の『源氏物語』(「帚木」の巻)では、染物の上手な女性を竜田姫といい、裁縫が上手な女性を織女姫(たなばたひめ)といっています。中国伝来の七夕伝説が生んだ織女姫に対して、竜田姫こそ日本の四季伝説が生んだ秋の女神といえるのではないでしょうか。

さあ、今年の秋は、竜田姫の歩みとともに澄みわたる空を仰ぎ、秋の山を歩いてみましょう。そして散る紅葉を竜田姫の幣かとながめ、川を流れ下る紅葉によって、竜田姫の退場を惜しむことに致しましょう。そうすると、デジタル化された現代にあって、華麗で荘厳な日本の秋がよみがえって来るに相違ありません。

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