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日本語日本文学科

2007.01.09

それだけの功|工藤 進思郎|日文エッセイ39

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第39回】 2007年1月5日

それだけの功
著者紹介
工藤 進思郎 (くどう しんじろう)
古典文学(平安)担当
『源氏物語』を中心に、平安時代の物語・日記文学を研究しています。

本居宣長が晩年に書いた『うひ山ぶみ』は、岩波文庫本で六十ページほどの小さな本ではあるが、今もなお学問を志す者にとって必読の書の一つと言ってよい。その中に次のような言葉がある。

詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうはいかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほどに学びかたよくても、怠りつとめざれば功なし。

この文章に先立って宣長は、まず学問をするにあたっては好きな道を選ぶように勧めているが、自分の好きな道、得意な方面を選んだにしても、怠けていては実りは期しがたい由を述べた上で、長年にわたり努力し続けることが、学問にとっては何よりも肝要だというのである。なるほどその通りと思われるけれども、いわゆる「言うは易く行なうは難し」で、なかなか実行は困難なのではなかろうか。しかし、「学びやうはいかやうにてもよかるべく」云々の一文に接すると、いささかホッとする。学び方について型にはまった方法など気にすることはない。自分がやりたいこと、究めたいことを、自分なりに倦まず弛まず進めていけばよい。初めに方法があるのではなく、自らの手で調べ、自分の頭で考えていくうちに、おのずから方法は身に付いてくるのである。続いて宣長はこうも説く。

又、人々の才と不才とによりて、その功いたく異なれども、才不才は生まれつきたることなれば、力及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、怠らずつとめだにすれば、それだけの功はあるものなり。

才能の有無は生まれつきであってどうしようもないが、「不才なる人」でも怠ることなく努力さえすれば、「それだけの功」はあるという。私はこの言葉が好きだ。世の中には確かにこちらが舌を巻くほどの秀才がいて、何ともうらやましいと思うことがある。そして自分の才能の乏しさを、いやが上にも思い知らされるのであるが、そういうとき私は、いつも宣長のこの言葉によって救われるとともに、元気を与えられる。まさしく不才なる者でも、怠らず努めさえするならば、相応の成果を挙げることができる。そう考えると、不思議に気持が落ち着き、勇気が湧いてくるのである。

これは「晩学の人」や「いとまなき人」の場合も同様であって、要は努力次第で当初の予想を越えるような成果を上げることができると、宣長は説き進め、「とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるるは、学問に大きにきらふ事ぞかし」と結んでいる。

人間にとって過去を振り返ることも無駄ではあるまいが、何事にせよ諦めぬことが大切であり、常に前向きに努力することを忘れてはならない。大きな志を抱くもよし、また小さな目標を立てて、その一つ一つを成し遂げながら進むのもよいだろう。努力は必ず報われるものと信じて生きること、これこそが学問のみならず、人生そのものと言ってよいのではあるまいか。

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