• Youtube
  • TwitterTwitter
  • FacebookFacebook
  • LINELINE
  • InstagramInstagram
  • アクセス
  • 資料請求
  • お問合せ
  • 受験生サイト
  • ENGLISH
  • 検索検索

日本語日本文学科

2006.04.01

縁は異なもの ―金子彦二郎との出会い(2)―|田中 宏幸|日文 エッセイ30

Twitter

Facebook

日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第30回】2006年4月1日

縁は異なもの ―金子彦二郎との出会い(2)―
著者紹介
田中 宏幸 (たなか ひろゆき)
国語科教育担当
日本語表現法・国語科教育法について理論と実践を通して研究しています。

奇縁というのは続くもののようである。リレーエッセイ第18回で述べた『現代女子作文』(高等女学校用作文教科書)との出会いも、いくつもの偶然が重なってもたらされたものであったが、著者金子彦二郎氏のご遺族とお目にかかれたのも、不思議な巡り合わせであった。

2005年3月、早稲田大学大学院での国内研修期間も終わりが近づき、論文執筆にいそしんでいたころ、滋賀県から友人が訪ねてきた。久闊を叙しながら、『現代女子作文』の作文課題の魅力を語っていると、「在京中に金子氏のご遺族を訪ねてみたらどうか」と勧めてくれるのである。ご住所も分からないのに無理なことだと一笑に付したが、確かにこの機会を逃せば、二度とかなわぬ願いとなる。見つかるわけがないと半ば諦めつつ、野地潤家先生からお借りした追悼文集『故文学博士金子彦二郎先生』(堀七蔵編、私家版、1958)を手がかりに、問い合せてみることにした。

とはいうものの、『現代女子作文』を刊行した光風館出版は、既に廃業。国立国会図書館、著作権協会、講談社(金子彦二郎『平安時代文学と白氏文集』の出版元)に問い合わせても、「個人情報なので教えられない」とにべもない。せめて調べ方だけでもとお願いしたら、「『著作権台帳』というのがある。大きな図書館ならば置いてあるはず」とのこと。半信半疑であったが、大学図書館に行ってみると、確かにあった。しかもCD-ROM版である。「灯台もと暗し」とはこのことか、これなら最初から図書館レファレンス係に相談すればよかったと、素人の浅はかさを嘆いたことであった。

早速、検索してみる。没後50年(金子氏の場合は2008年5月)まで著作権は残っているから、著作権の後継者が分かるのである。そこには奥様の名前(金子シバ)と住所(杉並区荻窪)及び電話番号(現在使われているかどうか不明という注釈付)が記載されていた。ところが、いずれも追悼文集の奥付に記された発行人の名前(金子令三)や住所(杉並区西田町)と異なっている。これではどうにもならない。

断念するしかないと思いつつ、著作権台帳のご住所に手紙を出すことにした。研究の経緯を説明し、資料があれば見せていただきたいことなどとしたためて、速達で投函したのである。ところが、(いや予想通りというべきか、)何日経っても返事がない。届いたのかどうかさえ分からない。電話をかけてもみたが、機械的応答の留守番電話なので、金子氏のお宅かどうかも分からない。27日の引っ越し予定日が刻々と迫っていた。

17日、勇を鼓して、直接訪ねてみることにした。まず杉並区役所へ行き、住民票の閲覧を依頼する。当該住所にお住まいの方が、金子彦二郎氏と縁続きの方かどうかだけでも知りたかったのである。だが、これも個人情報だからという理由で教えてもらえない。学術調査のためだと説明しても、了承が得られない。世帯主の名前も教えてもらえない。かろうじて教えてもらえたのは、追悼文集の住所と著作権台帳の住所は同一のものだということであった。住居表示が変更されていたのである。

とりあえず、地図を頼りに家の前まで行ってみることにした。区役所から徒歩15分。住宅街の瀟洒な構えの家にたどり着いた。表札には「金子」とある。期待がふくらむ。

だが、時刻は夕方5時近くになっていた。手土産も何も持っていなかったので、呼び鈴を押すのもためらわれる。家の前を何度もうろうろしたのち、おずおずと呼び鈴を押してみた。すると、男性が応対に出て来てくださったのである。

突然の訪問をわびつつ、名を告げると、手紙ならば届いているとのこと。中に招き入れてくださる。座敷には、金子彦二郎氏の遺影が飾られている。間違いなくこの家であった。そして、さきほど応対に出てくださった方が、実は、金子彦二郎氏の孫にあたる金子俊也氏(次男日出夫氏の子)なのであった。

ところが、何となく気ぜわしい空気が漂っている。聞けば、午後6時から金子令三氏(金子彦二郎氏の長男)の通夜だという。何という日にお伺いしてしまったのであろうか。知らぬこととはいえ、とんでもない失礼なことをしてしまったと後悔したが、俊也氏は、私の訪問を喜んでくださった。「手紙は届いていたが、取り込んでいて返事も出せなかった。伯父の令三は手紙を読んで、大変喜んでいた。通夜に来てくださったのも何かの縁だから、わが家に残っている資料は、何でも提供しましょう。大半は空襲で焼けてしまったが、女学校の生徒が書いた作文に祖父が評を書き加えた原稿が40編くらいあったように思う。葬儀等が終ったら整理しておくから、また来てほしい」と言ってくださるのである。

4月23日、お言葉に甘えて、上京。金子氏宅を再度訪問して、国語教育関係の文献と生徒作文を拝見する。なかでも、作文43編は大変貴重なものであった。これは、金子彦二郎氏が、1929(昭和4)年2月に茨城県立土浦高等女学校に招かれ、同校第2学年「は組」で「作文科の成績処理の実地授業」を行なったときのものである。いずれも校名入りの原稿用紙に清書され、氏による圏点と評とが書き加えられている。この授業内容の詳細は、金子彦二郎『智目と行足との新国語教授』(培風館、1936)に収められており、『野地潤家著作選集第9巻』(明治図書、1998)において、その質の高さが指摘されているところである。だが、生徒作文は7編しか紹介されておらず、当時の文章力を判断することが困難であった。ところが、今回の資料によって、この授業で生まれた生徒作文のすべてを確認することが出来るようになったのである。

(今回入手した生徒作文は、『清心語文』第7号(2005年7月)に発表した。)
この一年間をふり返ってみると、本との出会いにしても、ご遺族との出会いにしても、一つひとつの出来事が不思議な縁(えにし)でつながっていたのだと思わずにはいられない。もちろん、調べずにはいられないという探求心と具体的に動いてみるという行動力がなければ何ごとも始まらないのだが、それだけでは説明できない大きな力の存在が、私を導いてくれているようである。

また一つ大切な宝物(資料)を託された者として、学び得たものを書き記していくのが、私に課せられた仕事であろう。一日も早く、「中等作文教育におけるインベンション指導」の研究をとりまとめたいと、決意を新たにしているところである。

左画像:『日本語 新版(上)』(金田一春彦著、岩波新書)
岩波書店ホームページより。

日本語日本文学科
日本語日本文学科(ブログ)

一覧にもどる