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日本語日本文学科

2005.06.01

イーハトーブを足もとに感じて -宮沢賢治と坪田譲治-|山根  知子|日文エッセイ20

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日本語日本文学科

日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第20回】2005年6月1日

イーハトーブを足もとに感じて -宮沢賢治と坪田譲治-

著者紹介
山根 知子 (やまね ともこ)
近代文学担当
宮沢賢治・坪田譲治を中心に、明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。

毎年のように、宮沢賢治を卒論で取りあげるという私のゼミの学生が、岡山からはるばる岩手県の花巻へと取材の旅に出かける。もちろん、賢治だけでなく、近年は夏目漱石研究をする学生は東京や松山へ、金子みすゞ研究をする学生は仙崎へ、中原中也研究をする学生は山口へといったように、次々と自分のテーマを背負って旅立っている。

さて、今年の卒論ゼミ生二人が花巻を訪れた時期は、三月ではあったが、ちょうど寒波が戻り、雪が降った日にあたった。その日岡山でも雪が舞っていたから、あちらはさぞやと思い、二人が帰るやいなや話を聞くと、「下ノ畑ニヲリマス」という賢治の畑などは、雪一色で道か畑か見分けがつかなかったほどだったという。そうした天候に加え、さらに時間的制約があったにもかかわらず、花巻だけでなく盛岡を経由して小岩井農場まで訪れており、主要な地を無事めぐっていたことに安堵した。珍道中の話もほほえましく聞きながら、彼女たちが確実に賢治の世界を実感してたくましく帰ってきていることが感じられた。

思えば、現在賢治研究をしている私も、かつて大学生の頃から賢治の世界に出会いたいと願い、賢治ゆかりの地をめぐるようになってから、大学院時代、非常勤講師時代とよく岩手へ通った。当時私は東京に住んでいたので、岡山からはるばる出かけた学生たちの約半分の距離だったから、ひんぱんに一つ一つの作品の舞台や賢治のゆかりの地を訪ね歩くこともできた。今回の学生たちの話を聞きながら、私には自分自身の体験したさまざまな光景が思い出されてきた。北上川の春の河原でひばりが何度も飛び立っては降りてきた光景、バス停でおばあさんに道を聞いても一生懸命教えてくれている方言交じりの言葉がさっぱりわからなかったこと、泊めていただいた農家の方がその年の凶作に心砕いて嘆いておられたこと、地図のみを頼りに「狼森」を探して迷い、柏の葉ずれがカラカラと鳴るなかで幻想的な気分になったこと、岩手山の頂の火口跡で霧が晴れたとき、いきなり視界に拡がった一面の駒草の群生、等々。賢治はこのような体験から作品にこのように描いたのかと自分なりに味わった数え切れないすべての体験が、これまでの私にとって、賢治の作品を深く読むことにつながる貴重な体験になったとありがたく感じている。そうしてまた当時は、自身の内面の思索と文学研究へと向けた問題意識が絶妙に重なり合って、旅先での感慨がさらに深められてきた気がしている。

こうして、ひんぱんに岩手に通っている間に、そのころ住んでいた東京から岩手に近づくにつれ、「また帰ってきた」という思いになり、私にとって岩手はいつの間にか心のふるさと感じられてくるようになった。しかし同時に、そのように感じられる岩手を、賢治はどのような思いで「理想郷イーハトーブ」(イーハトーブは岩手県を指す)と呼んだのだろうかと、考えるようにもなった。そして賢治は、実際には凶作に苦しみ貧しさにあえぐ人々を目の当たりにしながら、その場所から逃れて「理想郷イーハトーブ」を別につくろうとしたのではなく、そのマイナス要素を抱えた生活の場そのものが「理想郷イーハトーブ」と感じられ変えられてゆく心のフィールターを探って、自らの作品のなかに投影させていったのではないかと思われた。

そうであれば、私は賢治のそのような思いのプロセスと作品への投影を理解するために岩手を訪れてそれらを実感したけれども、あるときふと、賢治が普遍的に万人に伝えたかったことは、各人の生活の場を理想郷と感じられる場にしていこうということではないだろうかと思われてきた。

そう考えると、私はまずは当時の生活の場であった東京の足もとを、どのような意識で捉えることができるのかを問い直し、さらに自らが生まれ育った岡山はどうかと振り返る思いだった。

そういう意識に向かってきた頃に、ちょうど岡山の本学へ着任することになり、導きを感じざるをえなかった。また、そこで本当の故郷岡山を、賢治の意図に沿って、捉えていこうという気持ちになってきたとき、岡山市より岡山市出身の作家坪田譲治の坪田譲治文学賞運営委員の仕事をいただくとともに、譲治文学の研究を深めその成果を公表してゆくことが期待されてきたことも奇遇であった。ちなみに、今年度平成17年夏には、岡山市デジタルミュージアムが岡山駅西口に開館され、そのなかに組み込まれる予定の坪田譲治コーナーの資料も現在準備中である。

坪田譲治は、生まれ育った幼少年期の思い出をもつ岡山を学生時代から離れ、東京での作家生活を行い、そのなかで生み出したほとんどの作品が岡山を舞台としている。そうして描きだした明治時代の岡山は、譲治によって「理想郷、桃源郷としてよみがえったもの」と捉えられてゆくのである。ただし、こうした幼少年期には幸福だった岡山の思い出には、譲治が成人してからの骨肉相争う身内の心の醜さを味わった岡山の思い出も重なっているはずである。譲治が岡山を想うとき、この重層的な印象があるからこそ、児童文学作品では幼少年期の幸福だった岡山の思い出がより深く反映され、小説ではそれに加えて、成人してからのつらい岡山の思い出にも目を背けることなく描かれている。このように譲治のなかの岡山への想いは複雑ではあるが、賢治とは違った経緯から、最終的には理想郷として深められてゆくのである。

こうして、賢治は郷土に住む立場から、一方譲治は郷土を離れた立場からではあるが、二人が文学を手掛け、郷土を深く見つめそこを舞台とした文学を創作してゆく過程のなかで、郷土におけるマイナスの現実からくる印象を昇華させてゆくことは、大きな課題であったことがわかってくる。

このような郷土の問題から、比較研究を始めた私であるが、その後他の様々な観点から二人の接点を発見するようになり、そのことに驚きつつ研究を進めている。一般に、宮沢賢治と坪田譲治は、それぞれ日本児童文学史上の礎を築いた人物として、一方はファンタジーで一方はリアリズムといったように、異なった資質が指摘される。確かにそうした面の違いはあるが、意外な深い接点があったことについては今後さらに研究を進めてゆくつもりである。

授業でも宮沢賢治と坪田譲治をとり扱っているので、岩手については写真等を見せ実体験も語ることで学生達に賢治の世界をより実感をもって解釈できるよう導きたいと思っている。また、譲治ゆかりの岡山については、本学にとってまさに地元となる岡山駅西口方面一帯が生家を含む重要な地である。かつて私は坪田譲治を卒論に手掛けていた学生とともに、古地図をもとにして地元の方からの聞き取りをしながら生家付近の島田の調査をした。そうした成果をもとに、今後も未調査の地に範囲を広げながら、学生達とともに現地を探索する機会をつくっていきたいと思い、楽しみにしている。

本学附属図書館・坪田譲治コレクションの紹介ページを設けています。是非ご覧ください。

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