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日本語日本文学科

2012.01.05

老女に何が起こったか|星野 佳之|日文エッセイ99

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第99回】 2012年1月5日

老女に何が起こったか
著者紹介
星野 佳之(ほしの よしゆき)
日本語学担当
古代語の意味・文法的分野を研究しています。

 もう十年近くになるが、岡山県玉野市の総合文化センターというところで、ほぼ毎月古典文学の講読を行っている。受講者はみな私より年配の方々で、世代の異なるお仲間と共に文学作品を読む機会は貴重だ。その講座で読んでいて、先日教室がなんだかしんみりしてしまったのは『宇治拾遺物語』の「雀報恩の事」(巻第三・16)である。「雀の恩返し」とでもいう題だが、私たちに馴染みのある「舌切り雀」とは少し異なる話である。

 子供が遊びで石を雀に投げつけ、その骨を折ってしまった。これを助けて回復まで世話をした老婆
に、雀が届けた瓢(ひさご)の種が富をもたらす。種が異様に大きく多く成って村中が食べられるほ
どの実をつけ、更に瓢箪(ひょうたん)を作るために乾燥させると、中には使い切れないほどの白米
が入っていたのだ。

 この事情を聞いて隣の老女も真似をしようとするが、怪我をした雀が都合良くいるはずもない。彼
女は自ら3羽の雀に石を当て、念を入れて骨を折り、その上で介抱した。雀はこれを恨み、報復の種を持ってくる。成った瓢を煮た煙に当たるだけで近隣の人々は吐き気をもよおして苦しみ、乾燥させた瓢箪からは無数の毒虫が這い出て、老女と一家を刺し殺してしまった。
※本文は『新編日本古典文学全集 宇治拾遺物語』(小学館)を参照。

 ストーリー自体はよくある話であるが、時として首を傾げたくなるほど雑な文章を見せる『宇治拾遺』にあって、ところどころ工夫が見られる章段となっている。

 例えば、隣の老女が開けた一つ目の瓢箪から既に毒虫は這い出して彼女を刺すのだが、7,8個の瓢箪全てから毒虫を出す運びにするために、「女、痛さも覚えず、ただ米のこぼれかかるぞと思ひて、『しばし待ち給へ、雀よ、少しづつ取らん』といふ」と描くところなど。これは彼女の欲深さの表現とも、復讐を徹底する雀の冷酷な仕掛けとも読み得るが、いずれにしても「そこらの毒虫ども」に刺されながら喜色をたたえて次々と瓢箪を取る老女の姿は、何とも言えぬ凄味がある。是非本文を参照して貰いたいと思うが、それでもこれだけの話であれば、さほど私たちの印象に残ることはなかったかもしれない。

 しかし、『宇治拾遺』は老女がこのような行動をとった動機として、子供の一言を挿入する。豊かになった隣家を見て、「同じ事なれど人はかくこそあれ。はかばかしき事もえし出で給はぬ(同じお婆さんでもお隣は違いますね、うちのお婆さんは大したこともできませんのにね)」と言わせるのだ。真心から雀を助けた最初の老婆と違い、自分の欲のために雀を痛めつけた彼女がその報いを受けるという大枠は受け入れやすいにしても、老女に隣人の真似事をさせたのが、「家の中で役立たずと言われたくない」という気持ちであった、と言われると、「されば物うらやみはすまじき事なり」という分かりやすい結びの教訓も、呑み込むのにためらいが生じてしまう。

 『宇治拾遺』の編者がこの教訓を示すことに専念するのだったら、この動機の箇所は描かれるべきでなかっただろう。或いはこのような動機と行動の食い違いを戒めるのだったら、教訓の方が変わっていたはずであろう。例えば「人に認められたければ地道に働け」などと。話の中で老女の動機は妙に浮き上がってしまっているのである。

 家庭や学校や職場といった居場所の中で、自分は無意味な存在なのではないかと問うたことのない人などいるだろうか。その問いは時として思い過ごしであるし、時として救いのない事実である。これは老人だけの問題ではないけれども、老いという避けがたい能力の低下は、そうした問いに更に焦りと真実味を加えるのだろう。誤った方法で自分の存在を自らと周囲に認めさせようとした老女が、却って「ひどい物を食わせた」と村中から責められた上に、毒虫に刺し殺されなければならないという結末はどうしてもむごい。それが教室の私たちの胸をも小さく刺したのだった。

 中世とはそれほど苛烈な時代だったのか。そうでもあろう。或いは物うらやみを戒めるのが目的のこの章段で、書いても書かなくてもよかったはずの老女の動機に触れた『宇治拾遺』は、実は私たちと共に彼女を哀れんでいるのかも知れない。そうであったとしても、「自分を認めて欲しい」という人間の気持ちを真正面から取り上げるのは『宇治拾遺』のなし得る仕事ではなかった。老女のような人間が直視して描かれ、登場人物としても読者としても納得し救済される話が語られるようになるのは、いつの時代なのであろう。それを考えることは文学史という営みそのものでなかなか手に余るが、今少し『宇治拾遺』に付き合いながら考えてみたい。それにしても改めて思うのだが、このようなことを共に考えてくれる人が集まる場を持てるのは、とても幸せなことなのだ。

※画像は、本学附属図書館蔵(特殊文庫・黒川文庫)『宇治拾遺物語』(万治二年の版本)。

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