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日本語日本文学科

2014.03.01

本当の「赤ずきんちゃん」── 突き放す古典文学 ──|小野泰 央|日文エッセイ125

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日文エッセイ

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第125回】2014年3月1日
【著者紹介】
小野 泰央(おの やすお)
古代の和歌と漢詩文担当

日本古典文学と中国古典文学の比較を研究対象にしています。

本当の「赤ずきんちゃん」  突き放す古典文学  

突き放す話
 童話の「赤ずきんちゃん」を知らない人はいないであろう。ただシャルル・ペローの原作は、我々が知っている「赤ずきんちゃん」とはかなり違う。現代における絵本の話は、狼に食べられた赤ずきんちゃんを猟師が助けて終わるが、原作は、狼が赤ずきんちゃんを食べてそのまま終わる。『ペロー童話集』(岩波文庫・新倉朗子訳)の「赤ずきんちゃん」では、その末尾が次のようになっている。

「おばあちゃん、なんて大きな目をしているの?」
「よく見えるようにだよ」
「おばあちゃん、なんて大きな歯をしているの?」
「お前を食べるためさ」
そして、こういいながら、この悪い狼は赤ずきん
ちゃんにとびかかって、食べてしまいました。
              
 この後、「教訓」として「これでおわかりだろう、おさない子どもたち」として、優しい狼ほど最
も危ないということを記す。つまり、「赤ずきんちゃん」は教訓のための童話であるが、話そのもの
だけを取ってみると、この最後はあまりにもむごたらしい。
 この終わり方を文学的に評価した人が、坂口安吾である。坂口は「文学のふるさと」という評論で、「赤ずきんちゃん」の終わり方について、次のように述べる。

 私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いながら、然(しか)し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかしも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
 そのむごたらしい結末に対して、「静か」で、「透明」であって、そこにこそ文学の「ふるさと」があるとする。その上で、このような話を、「アモラルな、突き放した物語」という。「アモラル」とは、モラルの反対で、反道徳的という意味であるが、ここでは「小説的でない」とか、「結末のない」といった意味であろう。

結末のある話
 「モラルのある話」、つまり「結末のある話」はわが国においては、江戸時代になって完全なるものになったと考えられる。その典型の一つである勧善懲悪の話などは、ドラマチックでもあるし、道徳性をも含んでいる。江戸時代になって、文学は庶民のものとなった。大衆は劇的な「結末」を好むから、物語も次第に洗練されていったわけである。
 それは現代まで続いている。現代の我々が接する小説やテレビドラマや映画にも必ずこの「結末」がある。海外でも、例えば、最近のハリウッド映画などは大衆が好む「結末」を持つ。それは極めて類型的でさえある。悪役は必ず懲らしめられて、主人公は凄まじいアクションの後、恋人と抱擁して、そこでエンドロールが始まる。

古典文学の意義
 ただその「結末のある話」を、我々の日々の生活に照らし合わせてみたときに、両者はあまりにも乖離していると言わざるを得ない。我々の生活には、「結末」がないことばかりであるからだ。恋愛はいつの間にかトホホな状態になり、仕事場では正論だけが通るわけではなく、日々のニュースでは、神様がいないのではないのかと思うほど、むごたらしいことばかりが報道される。この現実をそのまま小説にするとするならば、それは坂口安吾のいう「アモラルな、突き放す物語」になるであろう。

 現代文学には見られないその「結末のない話」は、日本においては、江戸時代以前の古典文学に散見する。坂口は先の「文学のふるさと」において、「赤ずきんちゃん」に次いで、『伊勢物語』の第6段を紹介している。同話は、ある男が女を盗んで、山奥でかくまっていると、鬼が一口で食べてしまったという話で、やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。として、男の悲痛な歌で終わる(この後に、女が二条の后で、兄藤原基経がそれを取り返したとするのは、後の付加と考えてよいか)。
 これらは意図的に突き放す話が形成されたのではなく、むしろ文学的に洗練されていない結果であると考えられるが、であるが故に、そこには真実ありのままに記録した痕跡を確認することができるわけである。
 古典文学を読む意義について、「文化を知る」とか、「昔の人の考えに触れる」とか言う場合がよくある。ただそれならば、歴史でも思想でもよいはずである。古典文学の意義は、その文学性に見いださなければならない。
 古典文学が退屈であることは間違いない。昔の言葉や文法で書かれているので、解釈しにくいのに加えて、そもそもその展開があまりない話があったり、ましてや今まで論じてきたように「結末」のない話だってあったりするのだ。だからすぐに眠くなる。
 ただそこには、現代文学にはもう確認されない、より現実を切り取った、さらにより真実に近い話が存在する。そんな古典文学を眠い目をこすりながら、ゆっくりと味わってみるのも、雑多な情報が飛び交い、何もかも意味づけせずにはおれない現代においては、必要なことではないか。
              
*画像(上)は「赤ずきんちゃん」挿絵(筆者作)、(下)はノートルダム清心女子大学特殊文庫蔵『角倉本伊勢物語』(函架番号K6)第6段。
*画像(上)の天地に誤りがあり、訂正しました(4月7日)。

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