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人間生活学科

2015.07.07

宜野湾村新城(ぎのわんそんあらぐすく)の生活(3)|加藤正春|生活文化史学研究室

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 1945年2月28日撮影の米軍空中写真から復元したと思われる、宜野湾村新城集落の模型について、もう少しみてみよう。模型には、集落の北西の広場で製糖作業を行っている様子が示されている(図1の二つのサークル。ただし、この模型写真では、砂糖車を回している人や動物のフィギュアは取り除かれている。)。

図1 新城の製糖作業

図1 新城の製糖作業

 かつての製糖作業は、沖縄の伝説を題材にした映画『ウンタマギルー』(1989年)などでみたことがある人がいるかもしれない。ここでは、その具体的な様子を、浦添市城間(ぐすくま)の『城間字誌第一巻 城間の風景』(2000年、城間自治会刊)に掲載されたイラストで示そう(図2)。

図2 城間の製糖作業(『城間字誌第1巻』132頁)

図2 城間の製糖作業(『城間字誌第1巻』132頁)

 製糖作業は、このように、真ん中においた3連の歯車(サーターグルマ(砂糖車)という)の間に、砂糖きびの茎をはさんで汁をしぼった。こちら側の人が砂糖車に砂糖きびをはさんで向こう側の人に送り、向こう側の人がもう一度砂糖車にはさんでこちら側に返すのである。絞った汁は下に樋を設けて桶に集めた。

 砂糖車を回転させる動力には牛や馬を用いた。イラストでは馬が用いられている(映画『ウンタマギルー』では3輪トラックで代用していた)。うしろの小屋は、しぼった汁を煮詰める釜を置いた小屋である。

 イラストには、小屋のうしろに蒸気機関車と車両が描かれている。第二次大戦前の沖縄では、大正時代から県営の軽便鉄道が営業しており、そのうちの嘉手納線の駅が城間にあった。したがって、このイラストは戦前の製糖作業を描いたものである。それは、1945年の新城で行われていたのと同じ作業である。図1に復元された二つのサークルは牛馬の歩く作業路であり、それぞれの中心に砂糖車が置かれている。

 しかし、第二次大戦前の新城を含む宜野湾村一帯では、砂糖きびはこのように自らの手で製糖するばかりではなかった。大正時代に入ると、宜野湾村内には砂糖きび集荷用の馬車トロッコのレールが敷設され、家々は刈り取った砂糖きびをトロッコに載せて、それを馬に引かせて出荷もしたのである。

 図3に、『宜野湾市史第5巻』(1985年刊)に掲載されている、戦前の宜野湾村のトロッコ軌道の路線図を示す。新城を通るトロッコ軌道のレールは、集落内の松並木の大きな道の西側の端に敷設されていた。この馬車トロッコは、北の普天間集落を経て南西に下り、西側の海岸沿いの県営鉄道大山駅に向かった。そこで貨車に積みかえられ、終点の嘉手納駅にあった沖縄製糖の工場に運ばれたのである。

図3 宜野湾のトロッコ軌道(『宜野湾市史第5巻266頁)

図3 宜野湾のトロッコ軌道(『宜野湾市史第5巻266頁)

1945年2月の段階で、新城の人たちが製糖作業を行っていたのは、その時点で鉄道が利用できなくなっていたからである。1944年10月10日の「十十空襲」以降、鉄道は兵員と軍事物資の輸送に用いられ、人々の利用は禁じられていた。2月の製糖期になって砂糖きびが熟し、人々はやむにやまれず自家で製糖作業をはじめたのだと思われる。

 その鉄道も、3月末までには運行を停止してしまった。その頃には、日中になると西の海岸線に米軍艦船が集結し、海は軍艦の鉛色に染まった。そして、新城の集落にも艦砲射撃が加えられるようになっていた。米軍の上陸は数日後のことである。

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