2017.01.10
人間生活学科では昨年(2016年)12月初旬に4年生の「卒業論文発表・審査会」を行いました。我がゼミの8名も無事(?)発表を終え、同月下旬の締め切り日までに卒業論文を完成、提出することができました。最終的な評価はこれからではありますが、卒業にめどがついたことで学生も心穏やかに新年を迎えられたことと思います。
年末、新年というのは人間が勝手に時間を区切ったものにすぎず、それにはお構いなしに様々な出来事が日々起こっています。とはいえ、このような区切りを設けることで生活にメリハリがつくということも事実でしょう。特に気持ちを新たにし、日ごろあまり考えることのない少し迂遠なテーマや大所高所に立って世の中を考えるよい機会でもあります。例年、メディアでもそのような記事や番組が特集されたりもしています。
その中の記事を一つ紹介します。日本経済新聞1月4日(水)付の「経済教室」欄、「大転換に備えよ(1)自由の気風・気概を羅針盤に~競争と再分配、豊かさの鍵~」で、猪木武徳 大阪大学名誉教授が執筆されたものです。少し長いのですが、特に心に留まった部分を以下に引用します。
「伝統的な米国社会には、競争の勝者に拍手を送り、勝者への嫉妬を潔しとしない気風があった。しかし決して競争を無条件に礼賛してきたわけではない。再分配への配慮と組み合わせて、競争に大きな社会的価値を認めてきた。
経済活動という『ゲーム』は、個人の努力だけではなく運や社会的環境などのコントロールできない要素が結果を左右する。生得的な能力や家庭環境だけで競争の結末が決まるのであれば、勝者が特に祝福されることはない。勝者が獲得した富は、個人が独力で得たものではないという認識があったのだ。
だからこそ競争を勝ち抜いたものが富を独り占めするのではなく、一部を社会に自発的に還元することで社会全体を豊かにするという再分配の哲学が意識されてきた。(以上、引用)」
しかし「近年の米国のスーパーリッチには富の社会的由来を自覚せず、富を完全な自己の独占物だと考えるものが多くなってきたのではないか。(同じく引用)」という切り口で米国社会の問題点に切り込んでいます。論文の一部を切り取ったものですので、執筆者の意図を正確に伝えることができていないことを懸念しますし、異なる意見を持つ方もおられるでしょう。(少しでも興味を持っていただいた場合には原文をお読みいただくことを希望します。ネットなどで自由に読めるというわけではないので申し訳ないのですが。)
おこがましいかもしれませんが、私は同様の問題意識を持っていましたので非常に腑に落ちましたし、"富を完全な自己の独占物だと考える"傾向は、米国だけでなく日本を含めた多くの社会にもあてはまるとも考えています。一方で、競争の勝者ではない『普通の生活者』の新しい動きにも注目しています。社会的課題が目に見えて大きくなってきたからなのか、社会の持続可能性に対して関心を持ったり積極的にかかわったりしようという意識が大きくなりつつあるように思います。あるいは、大きくなっているわけではなく、従来潜在していたものが顕在化しやすくなっているのかもしれません。
それはシェア(エコノミー:共有する経済)やクラウド(ファンディング:大衆からの資金調達)、あるいはエシカル(倫理)といった言葉や行動によって実践されつつあります。加えて、それが実現可能になった背景にはICT(情報コミュニケーション技術)の驚異的な発展があったということは間違いありません。そしてそれらの多くが若者によって主導されたり下支えされたりしています。実践の全てが社会的弱者への配慮や再分配につながっているわけではありません。しかし、その基本部分にソーシャルな意識、すなわち社会の一員としての自己というものが(必ずしも明確ではないかもしれませんが)認識されているように思います。
競争の勝者の哲学の復興、あるいは再構築と同様に、時代に応じた新しい理念を形作っていくことができれば21世紀をより希望的にとらえていくことができるのではないでしょうか。
年明けに、少人数の高校生と経済・経営について話しあう機会がありました。その最後に上記の記事を紹介しつつ、経済とは何なのかについて考える時間を設けました。次代を担う若い人が少しでもこのようなことについて関心を持ち、自分なりに考え、行動してくれることを期待したいと思います。
年末、新年というのは人間が勝手に時間を区切ったものにすぎず、それにはお構いなしに様々な出来事が日々起こっています。とはいえ、このような区切りを設けることで生活にメリハリがつくということも事実でしょう。特に気持ちを新たにし、日ごろあまり考えることのない少し迂遠なテーマや大所高所に立って世の中を考えるよい機会でもあります。例年、メディアでもそのような記事や番組が特集されたりもしています。
その中の記事を一つ紹介します。日本経済新聞1月4日(水)付の「経済教室」欄、「大転換に備えよ(1)自由の気風・気概を羅針盤に~競争と再分配、豊かさの鍵~」で、猪木武徳 大阪大学名誉教授が執筆されたものです。少し長いのですが、特に心に留まった部分を以下に引用します。
「伝統的な米国社会には、競争の勝者に拍手を送り、勝者への嫉妬を潔しとしない気風があった。しかし決して競争を無条件に礼賛してきたわけではない。再分配への配慮と組み合わせて、競争に大きな社会的価値を認めてきた。
経済活動という『ゲーム』は、個人の努力だけではなく運や社会的環境などのコントロールできない要素が結果を左右する。生得的な能力や家庭環境だけで競争の結末が決まるのであれば、勝者が特に祝福されることはない。勝者が獲得した富は、個人が独力で得たものではないという認識があったのだ。
だからこそ競争を勝ち抜いたものが富を独り占めするのではなく、一部を社会に自発的に還元することで社会全体を豊かにするという再分配の哲学が意識されてきた。(以上、引用)」
しかし「近年の米国のスーパーリッチには富の社会的由来を自覚せず、富を完全な自己の独占物だと考えるものが多くなってきたのではないか。(同じく引用)」という切り口で米国社会の問題点に切り込んでいます。論文の一部を切り取ったものですので、執筆者の意図を正確に伝えることができていないことを懸念しますし、異なる意見を持つ方もおられるでしょう。(少しでも興味を持っていただいた場合には原文をお読みいただくことを希望します。ネットなどで自由に読めるというわけではないので申し訳ないのですが。)
おこがましいかもしれませんが、私は同様の問題意識を持っていましたので非常に腑に落ちましたし、"富を完全な自己の独占物だと考える"傾向は、米国だけでなく日本を含めた多くの社会にもあてはまるとも考えています。一方で、競争の勝者ではない『普通の生活者』の新しい動きにも注目しています。社会的課題が目に見えて大きくなってきたからなのか、社会の持続可能性に対して関心を持ったり積極的にかかわったりしようという意識が大きくなりつつあるように思います。あるいは、大きくなっているわけではなく、従来潜在していたものが顕在化しやすくなっているのかもしれません。
それはシェア(エコノミー:共有する経済)やクラウド(ファンディング:大衆からの資金調達)、あるいはエシカル(倫理)といった言葉や行動によって実践されつつあります。加えて、それが実現可能になった背景にはICT(情報コミュニケーション技術)の驚異的な発展があったということは間違いありません。そしてそれらの多くが若者によって主導されたり下支えされたりしています。実践の全てが社会的弱者への配慮や再分配につながっているわけではありません。しかし、その基本部分にソーシャルな意識、すなわち社会の一員としての自己というものが(必ずしも明確ではないかもしれませんが)認識されているように思います。
競争の勝者の哲学の復興、あるいは再構築と同様に、時代に応じた新しい理念を形作っていくことができれば21世紀をより希望的にとらえていくことができるのではないでしょうか。
年明けに、少人数の高校生と経済・経営について話しあう機会がありました。その最後に上記の記事を紹介しつつ、経済とは何なのかについて考える時間を設けました。次代を担う若い人が少しでもこのようなことについて関心を持ち、自分なりに考え、行動してくれることを期待したいと思います。
※写真は昨年11月に行ったゼミ旅行での写真です。30年以上ぶりの尾道は依然として美しく、懐かしさで大いに癒されました。