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人間生活学科

2017.05.01

自然と人間のイミフな関係|葛生栄二郎|人間関係学研究室

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人間生活学科

学科ダイアリー

西洋人は自然と人間をハッキリ区別し、自然を管理・支配しようとする。かたや日本人は人間を自然の一部として捉え、自然と共生しようとする。とまあ、こんな話をよく耳にする。自然と人間の関係についてしばしば語られる、ステレオタイプな(型にはまった)言い方だ。

確かにこういう面もあるのだろうが、法の歴史を見ていると、本当にそう言えるのか、かなり首をかしげたくなる。なぜなら、近代に至るまで(正確には、17世紀頃まで)、西洋法の世界では、自然と人間はゴッチャだったし、生者と死者の区別さえゴッチャだったからである。たとえば、その典型として、「動物裁判」と呼ばれる奇習があった。近代以前のヨーロッパでは、虫や動物がよく裁判にかけられていたのだ。作物を食い荒らしたバッタが処罰されたり、人に危害を加えたブタが死刑宣告を受けて処刑されたりしていた。これが単なるオアソビや儀礼ではなかったことは、穀物を食べた罪で起訴されたネズミに立派な弁護士が付き、鮮やかな弁護で無罪を勝ち取った事例があったりすることからも分かる(エドワード・ペイソン・エヴァンズ『殺人罪で死刑になった豚』参照)。動物だけならまだしも、老朽化のために倒壊し、通行人を傷付けた青銅像が裁判にかけられて刑の宣告を受けたという事例まである。これに至っては、まったくイミフ。もはや、彼らにとって裁判とはいったい何だったのか、わけが分からない。

死者も然り。死者は真犯人を語ると考えられていたのだ。そのため、殺人死体は樽に塩漬けにされ、裁判の場で「証言」することを求められた。それでも腐敗してしまいそうならば、腕を切り取り、それを証言台に立てて裁判を行なったという。死者の指が真犯人を指し示すというのである。結構コワイ。最近、日本では天皇の退位が話題になっているが、西洋の戴冠式は、多くの場合、教会で行う(たとえば、イギリスのウェストミンスター大聖堂)。ところが、実は、西洋の教会の内部はおびただしい墓で溢れているのである。ということは、王様は死体(歴代の王の死体)に囲まれ、見守られて即位するということになる。おそらくこれも、歴代の死せる王たちが新王の正統性を証言するからなのだろう。逆に、日本の天皇の死体には価値が認められていない。あれほど神とあがめられた昭和天皇の墓がどこにあるのか、知っている日本人は、むしろ少ないことだろう(武蔵野陵にある)。それは、死することで「天皇霊」が遺体から離脱し、新天皇に憑依すると考えられているからである。天皇が生前退位してしまうことの不都合の一端だが、ここにも死者に対する考え方の違いを垣間見ることができよう。

自然と人間との分化をもたらしたのは、西洋の文化でもなければ、キリスト教という宗教でもない。あえて言うならば、地球の資源を貪欲に吸い上げて膨張した近代資本主義経済だと言うべきだろう。さまざまな価値観の違いを、私たちはついつい「分かりやすい説明」で片づけてしまいがちだが、現実ははるかに複雑で一筋縄では行かない。この複雑怪奇な世界を知ろうとするのが学問という営みだ。勉強をすれば「分からなかったこと」が分かるようになるが、学問は「分かっていたこと」が何だか分からなくなってくる。ちょっと意地悪な営みだが、その分、私たちの住む現実をスリリングでミステリアスな世界に変えてくれるものなのである。

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