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現代社会学科

2015.05.28

ある六部殺し[続]:学科の紹介【13】

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現代社会学科

学科ダイアリー

ある六部殺し[続]

小嶋博巳教授
 六部は諸国をめぐり、佐渡へ来るとここへ泊まっていました(六部のなかには諸国遍歴を続ける職業的な巡礼者がいました)。ある時、また佐渡にやってきて酒屋を訪れると、すでに娘には先客がいる。六部は純情だったのでしょう、男は自分一人だと思っていたから、怒り、酒蔵に火を放ちます。ところがこの日は、西から入ってくる風、土地でいうシモタケエ(下高い)風が強く吹く日でした。火はその風にあおられ、村を斜めに舐めるように燃え広がって、とうとう90戸の村のうちの70戸までを焼いてしまいます。

 六部は相川道を北に逃げました。村を見下ろせる場所まで来て石に腰を下ろし、「あぁ、大火にしてしもうたやあ。こんなに大事になるとは思わんかった。酒屋ばかり焼くつもりやったが」とつぶやいたそうです。これを聞きつけたのが消火の加勢にやってきた隣村の火消しでした。火をつけたのはお前か、とばかり、道の下の滝壷へ六部を突き落としました。それきり六部の身体はあがらなかったということです。六部が落とされた場所は、いま「坊さん落とし」と呼ばれています。

写真3 六十六部(ノートルダム清心女子大学蔵『廻国供養絵巻』より)

写真3 六十六部(ノートルダム清心女子大学蔵『廻国供養絵巻』より)

 この地区で嘉永4年(1851)または5年に大火があったのは確かで、焼けた家々の普請に酒屋の山の木が提供されて、木を伐り出して曳いた跡が至る所に残っていたといいます。話の背景には多くの事実があると思われます。しかし、この話がここまで詳細に語られることには、理由がありました。私が詳しく話を聞かせてもらったのは酒屋の縁者にあたる女性でしたが、一族に若死にする人が続き、またこの地区がかつては「火事部落」といわれるほど火事が多かったのも、六部の祟りだということになっていたようです。この女性自身も、心身の激しい不調に悩まされた過去をもっていました。彼女は最初は相川の、のちには島外の、いずれも女性の宗教者を頼ったのですが、どちらもシャーマン的な資質をもった人物で、六部の霊がのりうつって因縁を語り、供養を要求したということでした。六部と宗教者とのあいだで繰り広げられた交渉(その生々しいやりとりも聞かせてもらいました)の結果、滝壺に沈んでいた六部の霊魂は"引き上げ"られ、地区の寺の門前の小堂に普賢菩薩として祀られて、いまは地区を守護する仏となっています。

 伝説は、通常、なにかを説明する機能をもっているものです。一般的な「六部殺し」でいえば、ある家の抜きんでた成功と不可解な不幸を説明するというのが、それにあたります。この話も、酒屋と地区に災いがあるごとに思い起こされ、語られ、災いの説明として機能してきたとみられます。他界と交渉するシャーマン的な人物の関与は、その因果をいっそう具体的なものとして蘇らせ、肉付けするとともに、怨霊を祀り上げることによって災いの連鎖を断ち切ったということになるでしょうか。

 しかし、それにしても、六部(じつはこれ、私の年来の研究対象です)はなぜ、あっちでもこっちでも頻繁に殺されるのか。いちおうの答え――たとえば、「六部」は江戸時代には遍歴者の代名詞的存在であったとか、彼ら自身が危険を回避するために殺した者がむくいを受ける話をあちこちで語り広めたなど――はあります。しかし、本当のところは謎です。

写真4 六十六部の巡礼成就の供養塔(佐渡市栗野江)

写真4 六十六部の巡礼成就の供養塔(佐渡市栗野江)

佐渡は巡礼の盛んな島で、全島に250以上の六十六部の供養塔が立つ

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