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日本語日本文学科

2019.06.01

コミュニケーションを哲学する|尾崎喜光|日文エッセイ 188

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日本語日本文学科

日文エッセイ

【著者紹介】
 尾崎 喜光(おざき よしみつ)

 日本語学担当

 現代日本語の話し言葉の多様性に関する社会言語学的研究。日本語の男女差、年齢差(加齢変化)、地域差(方言)、方言と共通語の使い分け、敬語行動、現在進行中の言語変化、韓国語との対照言語行動研究など。研究テーマも多様。


コミュニケーションを哲学する


テーブルの上のみかん

 家に帰ってきたらテーブルの上にみかんが置いてあったとします。家族の誰かが買ってきたに違いありません。全部で5個あります。
 さて、みかんが左側のように置かれていた場合と、右側のように置かれていた場合とを比べたとき、私たちはどのような違いを感じるでしょうか?

 左側のように置かれていた場合は、家族が適当にこのように置いただけで、意図してこのように置いたとは思わないでしょう。これに対し右側のように置かれていた場合は、家族が意図的にこのように置いたと思うに違いありません。たとえばあなたを面白がらせようとしてこのように置いた可能性が考えられます。「置いた」というよりも「並べた」ですね。
 さて、この二つは何が違うでしょうか?
 答えは<秩序>です。左側の配置には秩序が感じられません。つまり無秩序です。これに対し右側の配置には秩序が強く感じられます。
 みかんが自ら右側のような秩序を作ったとは考えられないので、この秩序を作ったのはみかんの外部に存在する何者かであると考えざるをえません。そう考えるのが合理的です。

世界は秩序で満ちている

 私たちの身の回りに存在する事物を意識して観察すると、さまざまなものに秩序が見られることに気づきます。人間が作った物にも秩序があります。
 たとえば自転車を考えてみましょう。自転車は、秩序ある形を持った部品が秩序をもって組み合わさり、人間がペダルに力を与えることで「走る」という機能をきちんとはたしています。なぜ自転車はこのような秩序を持っているのでしょうか? 言うまでもありません。技術者がそのように設計し、そのための部品を作り、設計どおりに組み立てたからです。放っておいたら自然にできあがったわけではありません。「10万年時間が経ったら自然にできたんです」などと言ったら「気は確かか?」と言われそうです。
 自然界の森羅万象にも秩序が見られます。中には不思議な秩序もあります。
 太陽が月にすっぽり覆われる皆既日食のしくみを考えてみましょう。これが生じるのは、太陽の前を、地球からの見かけ上の大きさが太陽とほぼ同じ月が通過するためです。太陽の直径は月の400倍もあるのに、地球からの距離は月までよりも400倍あるため、見かけの大きさが月と太陽とで同じになり、皆既日食が生じうるのです。
 月は球体ですから裏面があります。しかし、地球から眺めることができる面は常に一定で、決して裏面を見ることはできません。なぜでしょうか? それは、月の自転の周期と、地球に対する月の公転の周期が完全に一致しているからです。寸分のくるいもありません。
 月に関するこうしたことも私には秩序と感じられます。このような秩序が見られる原因は天体自体にあるのではなく、天体がそのように存在するよう設計し、かつそうたらしめている何者かが天体の外部いるためと考える方が合理的です。
 つまり、万物が秩序を持って存在しているということは、そのように設計しそうたらしめている何者かが存在していることを示唆しています。この存在をキリスト教では「神」(創造主)と呼んでいます。私たち一人一人も、じつはこの神によって造られ存在している者なのです。

神は何のために人間を造ったのか?

 では、神はいったい何のために私たち人間を造ったのでしょうか? 完全に義である神の前には消滅するしかない罪ある人間との関係を回復するため、三位一体としての神自身でもあるイエス・キリストを十字架につけるという、とてつもなく大きな犠牲を払うことを覚悟の上で、神はいったいなぜ人間を造ったのでしょうか?
 その理由については、神と人間との和解(神による人間の救い)を強調する私が所属するプロテスタントの教会でも、人間に対する神の恵みといつくしみを強調するカトリックの教会でも、ほとんど語られることがないようです。
 私は神学も哲学も学んだことがありませんが、素人なりにその理由を考えてみました。ヒントは『聖書』の「創世記」第2章第18節の次のことばにありそうです。

  その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(新改訳聖書)

 「人」とは神が最初に造ったアダムのことです。アダムがひとりでいるのは良くないと神は考え、エバを造ったのです。聖書には「助け手」とありますが、お互いにコミュニケーションをとって助け合い、共感しあう他者が人間にはぜひ必要だと神は考えたのです。
 じつはこのことは、神と人間との関係についても言えるのではないかと思います。
 全能の神はその力により、「無」から秩序ある「有」を生じさせました。確かにそれは偉大な力です。しかし、もし単にそれだけのことであるならば、いったい何のための創造だろうかと思うのです。
 創造の業は、それを認知し応える他者との交流があって初めて完結する行為のように思われます。神が一つでありながら複数の位格を持ち(これが三位一体)、その内部において交流(コミュニケーション)を持つのは、それを考えれば必然のことと言えます。
 しかし、複数あるとは言いながら本質は一つである神自身の内部交流(コミュニケーション)では、神を十分満足させるものではないと思われます。神自身とは全く異なる別の存在との交流(コミュニケーション)がなされて初めて、神は十分満足されるのだと思うのです。それを実現するために、神は大きなリスクを覚悟の上で、神に似せて、命の息を吹き込んで人間を造ることを決意したのではないかと私は考えます。つまり「コミュニケーション」こそが、神が人間を造った最大の目的だろうと思うのです。

では、私たちは何をしたらよいか?

 では私たち人間は何をしたらよいのでしょうか?
 難しいことはありません。自然を見て感動したら、ただ感動するだけでなく、それを造ってくださった神に「すごいですね! こういうものを造ってくださりありがとうございます」と感謝する。また、素敵な服を買ったならば「こんな素敵な服を作る技術を持ったデザイナーさんや職人さんをこの世に備えてくださりありがとうございます」と感謝する。こんなふうに、全てのできごとやことがらの背後にいる神に感謝のコミュニケーションをとることこそが、神が私たち人間に対し最も期待していることであり、また人間がなすべきことでもあると思うのです。
神からの贈り物

 本学でクリスマスシーズンによく歌われる曲に「暗闇に光」があります。この曲の作詞・作曲者である岩渕まことさんは、若い頃「贈り物」という曲も作詞・作曲しています。春から夏に季節が移り変わるこの時期にぴったりの、私の好きな曲の一つです。そのサビの部分には次のようにあります。
  瞳に映るひとつひとつは 神からの贈り物
  世界に満ちる全てのものは 神からの贈り物
 文脈から判断すると「ひとつひとつ」や「全てのもの」は自然物を指しているように思われますが、神に似せて(『聖書』の「創世記」第5章第1節)創造的存在として作られたアダムの子孫である私たち人間が創り出したさまざまな人工物も、元をたどれば「神からの贈り物」です。
 全てのことについて神に感謝のコミュニケーションをとるためにこそ私たち人間は造られたのだと、私は信じています。

【参考文献】
リー・ストロベル著・峯岸麻子訳『宇宙は神が造ったのか?―聖書の「科学」を調べたジャーナリストの記録―』(いのちのことば社、2009年)
岩渕まこと『パラダイス(paradise)』[CD](ミクタム)

*本記事は、キリスト教の名を借りたカルト・異端とは一切関係ありません。



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