「神の子ならば、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
(マタイによる福音書4章3~4節)

 霊に導かれて荒れ野に赴いたイエスは、四十日間の断食の後、空腹を覚えます。そして、それにつけ込もうとする悪魔からの誘惑を前に、旧約聖書の一節(申命記8章3節)を引用し、きっぱりとその試みを退けました。
 旧約でモーセがイスラエルの民に告げたこの部分は、四十年間この民を苦しめた荒れ野の旅の意味を明らかにしたものでした。神は苦悩を通じてあなたを試し、神の道を歩むように導いておられるのだ、というのです。
 ここでいう「言葉」は、自分の口から出る言葉ではありません。それは語るものではなく、ひたすら聞こえてくるもの、耳を傾けるものです。私たちはともすると、自分は自分の力だけで何とか生きられるし、そうすることが正しいのだ、などと考えがちです。しかしそうした自己コントロールの幻想にとらわれると、自分の過ちや弱さを認められず、完璧主義になって、人や自分を責め立てるようになってしまいます。
 心の飢えや渇きを感じるとき、それを隠したり、自分だけで抱え込んでいると、目の前にすでに与えられている豊かな糧に、素直に心を開くことができません。そんなとき、せめて神の前に素顔をさらし、胸を騒がす言葉をしずめて、沈黙のうちに祈ることができれば、そこには荒れ野から緑なす谷間へ通じる、一筋の道が見えてくるように思うのです。

人間生活学科 准教授  﨑川 修

2017年
12月14日

クリスマス

リスマス(待降節)

キリスト教では人が罪に傾く傾向を、人祖アダムの犯した罪が原罪(Original Sin)としてその後の人類に引き継がれていると説明しています。もちろん実際はその逆で、善なる神の創造物である人間なのに罪に傾く傾向があるのはなぜなのか、創世記の中でそれを説明したのです。そしてそれを打ち破ったのがキリストで、彼の受難と復活と昇天、一連の行為で、人類が罪の束縛から解放されたと考えています。キリスト(救い主)であるイエスが生まれなかったら、私たちに救いはなかったというわけです。

「一人の人によって罪が世に入り...一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされたように、一人の従順によって多くの人が正しいものとされるのです」(ローマの信徒への手紙5.12-19)

クリスマスという言葉は英語です。キリストのミサ(Christ-mass)が語源で、「キリスト」のギリシャ語表記「Χριστος」の頭文字を取ってXmasとも書かれます。独語ではヴァイナハテン、仏語ではノエル、日本語では、「降誕祭」と訳されています。今や日本でも国民行事のようになりましたが、バレンタインデーのチョコレートやハロウィンのお化けのように、ただお祭り騒ぎではなく、クリスマスに特別な人と共に過ごすとしても、本来の意味を知ってお祝いをしたいと思います。サンタクロースも本当は、セントニコラウス(270年生 トルコの司教)が貧しい人のところへプレゼントを届けたという逸話を模しているのですから、子どもの求めるものを「サンタさんからのプレゼント」と称して何でも与えてしまうのは、考えものかもしれません。

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」(ルカ1.31)

 

ドヴェント(待降節)

キリスト教国ではクリスマスが近づくとそれを待ち望む気持ちとして街にイルミネーションが灯されます(本学では12月6日18:10から点灯式が行われました)。クリスマスの4回前の日曜日から始まる待降節は、今年のクリスマスが月曜日であるために、最も遅い始まりとなり、12月3日がその第1回目の日曜日(主日)に当たります。そして日曜日毎にアドヴェントリースのろうそくに灯を1本ずつともしていきます。クリスマスがだんだん近づく感じがわかります。そして3人の博士が馬小屋を訪ねてくるという公現(1月の第1日曜日、今回は7日)までがクリスマスの期間(降誕節)で、その後イルミネーションをはずします。

馬小屋(プレセピオ)はカリタスホールの玄関とヨゼフホール玄関にあります。キリストがベツレヘムの馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされたことを表していて、中世期にアシジの聖フランシスコが始めました。初めは実物大だったようです。

(アシジの聖フランシスコは髙木孝子前学長の修道名です。)

人間の王様が立派な御殿で生まれるのに対して、神である霊的な王様は、かえって貧しさの中に生まれました。このことは神が富める人のみならず、貧しい人と共にあることを立証しています。

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2.7)

この馬小屋には羊飼いが付きものですが、これも当時、極貧といわれた羊飼いたちに天使の知らせが一番にあったという聖書の言葉を表現しています。

 「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。...今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』」(ルカ2.8-11)

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つまり、クリスマスは宗教行事であり、イスラム圏やユダヤ圏など、特に一神教の世界では、基本祝わないのです。その大半が非キリスト信者の日本でクリスマスが定着しているのは、かえって珍しいことなのかもしれません。私たちは、クリスマス商戦に踊らされることなく、いただいている恵みが私たちに十分にあることを思い起こして、不満ではなく感謝をしながら少しでも他の人のために働くことが出来る、そんな期間を過ごしたいと思います。

キリスト教文化研究所所員 大谷 文彦 (附属幼稚園長)

★クリスマスをともにお祝いしましょう

ノートルダム清心女子大学のクリスマス行事 ⇒詳細はこちらへ

12月23日(土・祝日)

13:00~ クリスマスミサ
14:15~ 茶話会
15:15~ クリスマス・ファミリーコンサート(児童学科音楽研究室)

 

カトリック岡山教会(岡山市天神町)のクリスマスミサ 詳細はこちらへ

12月24日(火)

メサイア公演;17:00~18:30(大谷園長指揮)

*本学関係者や、ヨセフ会のメンバーも合唱団として出演します。

◇ミサ;19:00~、21:00~、0:00~

12月6日(水)18時10分から、アドヴェントの最初の行事として、クリスマスツリーの点灯式を行いました。
学生、教職員、附属幼稚園の園児、附属小学校の児童など、約120名が図書館前に集まり、キャンドルを手に、共に祈り、共に歌い、ツリーの点灯を見守りました。

アドヴェントとは、キリスト教において、イエス・キリストの降誕を待ち望む期間のことで、日本語では「待降節(たいこうせつ)」といいます。
降誕祭(12月25日)の4つ前の日曜日から始まります。2017年は12月3日から始まりました。

点灯式では、聖歌「あめのみつかいの」をグリークラブの皆さんとともに歌い、聖書朗読の後、学長の原田豊己神父によりもみの木が祝福されました。点灯されたもみの木は、青と白の光に包まれました。

みんなで、聖歌「きたれ友よ」を歌いながら、カリタスホールの玄関へ移動し、原田神父のお祈りあとに、幼子イエスの眠る馬小屋とツリーに温かい光が点されました。

この日の岡山はとても寒い夜となりましたが、心が温まるひとときを共に過ごすことができました。
ご参加くださいました皆様、ありがとうございました。

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ツリーの点灯期間 ~2018年1月7日(日)まで。

     点灯時間 毎日15:00~21:00

地域の皆様にもご覧いただけます。東門にある警備室にお声掛けください。
なお駐車場はございませんので、ご来学の際は公共交通機関をご利用くださいますようにお願いいたします。

これからのクリスマス行事のご案内

2017年11月25日(土)~11月26日(日)に、「第17回カトリック女子大学総合スポーツ競技大会」が、東京の聖心女子大学で開催されました。

この大会は、同じ教育理念を根底に置く5つのカトリック女子大学が、スポーツを通して大学相互間の交流の輪を広げ、連携を深めることを願って毎年開催されているものです。

 

聖心女子大学、清泉女子大学、白百合女子大学、京都ノートルダム女子大学、本学の5大学が集まり、バスケットボール、バドミントン、テニス、バレーボールの4種目で熱戦を繰り広げました。

  

 

本学は全種目に参加し、いずれも健闘しました。

結果、バスケットボールでは準優勝という成績をおさめました。

 

次回の大会は、2018年12月15日(土)~16日(日)に本学をメイン会場として開催される予定です。

各クラブとも今回の競技大会での経験を生かし、早速来年に向けて練習を始めています。

開催校での優勝を目指して、学生、職員が一丸となって取り組んでいきたいと思います。

 

学務部学生係

「 烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏(からす)を養ってくださる。」「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」
(「ルカによる福音書」12章24節‐27節)


京都市左京区の曼殊院という寺の庫裏(くり)(キッチン)の入り口に額が掲げられています。曰く、「媚竈(びそう)」。「竈(かまど)に媚(こ)びよ」という謂です。「虚栄の権力に媚びるなかれ。己れのいのちを直接に支えてくれるカマドの番人をこそ尊ぶべし」。「媚竈」の額はそう語っています。ここには、「権力なるもの」に対する反骨精神とともに、権力に阿(おもね)ることから生じる価値の転倒を戒める精神が見出されると言えるでしょう。

上掲の一節は牧歌的な自然讃美と誤解されがちですが、そうではありません。イエスの語った「野原の花」は、ユリなどではなく、実はアザミでした。アザミは、イスラエルでは忌み嫌われる草花でしたから、イエスは「カラス」と「アザミ」という、当時、不吉として忌み嫌われていたものをあえて組み合わせて語ったことになります。そして、「栄華を極めたソロモンにではなく、あなたがたの忌み嫌うカラスやアザミにこそ目を向けよ」と説いたのでした。まさに媚竈の精神ではないでしょうか。

人間生活学部 教授 葛生 栄二郎