2017年
08月21日

歴史の中の「ある三姉妹」【32】

歴史の中の「ある三姉妹」

西尾和美教授

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  今から五百年近く前、戦国時代の安芸(あきの)(くに)(広島県)高田郡の()(りゅう)城に三姉妹がいた。父は同城主宍戸(ししど)隆家(たかいえ)、母は戦国大名毛利(もうり)元就(もとなり)の娘である。彼女たちはやがて、毛利氏にとって重要な意味をもつ婚姻をする。

 上の娘は、瀬戸内海を越えて、当時毛利氏が関係を深める伊予国(愛媛県)へ嫁いだ。対岸とはいえ、現代とは往来の便も異なる。娘も若かったのだろう。母親は自分を育ててくれた信頼厚い乳母(めのと)に懇願して、娘の婚姻に付き添わせた。

  この娘の子が、伊予(いよの)(くに)守護(しゅご)河野(こうの)氏の最後の当主(みち)(なお)である。先代の死後まだ通直は幼く、彼女は実家方の毛利一族と密接につながって大きな力を握ったが、豊臣政権の全国統一の過程で、河野氏は長年の国主の座を追われた。父宍戸隆家が娘と孫の身を案じた書状が残る。

 

 【写真1】伊予河野氏の居城:()築城(づきじょう)跡(愛媛県松山市)


 【写真2】国史跡:湯築城跡家臣団居住区

 

  その後、彼女らは親戚の小早川氏を頼り安芸の竹原に渡るが、まもなく通直は同地で死亡する。1587年、二十代の若さであった。翌春、(とむら)いの高野(こうや)登山で建てられた通直の供養塔と彼女自身の逆修(ぎゃくしゅ)塔(生前の供養塔)が、今も奥の院に並び立つ。晩年と死の事情は不詳である。

 

【写真3】高野山奥の院一の橋付近

【写真4】河野通直母子の五輪塔

 

  中の娘は、祖父元就になかなかの人物と評された。毛利氏を支える吉川(きっかわ)氏に嫁いだが、夫は豊臣政権の全国統一のために出陣した九州で病死する。その後彼女は実家に帰ったと伝わるが、晩年は妹の近くで暮らしたようで、1636年に山口で死んだ。

  末の娘は、1558年に生まれ、十代の初めに元就の孫毛利輝元に嫁ぐ。母に重ねて、毛利・宍戸両家の絆を固める婚姻であった。直後に毛利家では祖父元就、輝元母の死亡が続き、夫妻は、織田・豊臣政権の波が中国地方へ押し寄せ、やがて徳川の世へと移る時代を生きていく。実子はなく、1631年に山口で死んだ。
  姉妹たちは胸中に何を抱え、だれを思い、生涯を生きたのか。その心の(ひだ)は知り得ないが、いつの時代にも、一人ひとりの人間が生きており、忘れられてよい命は一つもない。それが歴史を通して培うべき想像力と謙虚である。わずか七十余年前の国民的記憶の風化が懸念される現在、あらためて胸に刻まれる。