2015年
04月28日

ある六部殺し:学科の紹介【12】

ある六部殺し


小嶋博巳教授

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 民俗調査、つまり現地で土地の慣習や伝承を聴き取ったり観察したりする作業は、民俗学がもっとも重視するデータ収集の方法です。私自身はあまり良いフィールドワーカーとはいえませんが、それでも民俗学の勉強を始めてからこのかた、東北から南九州の島まで、いろいろな土地で民俗調査をする機会がありました。本来、その成果は、時間を割いて煩わしい質問に応じてくださった方々のご厚意を無にしないためにも、きちんと調査報告や論文にして活かさなければならないのですが、実際は活字にできたものはごく一部にすぎず、大半が古い調査カードに眠ったままになっています。今回はその一つの、いわば蔵出しです。
 もう十数年前になりますが、佐渡で民俗調査をしたことがあります。目的は、この島の巡礼の習俗や、この島を舞台にした宗教者たちの活動を知ることで、島の各処で話を聞き、ときに堂や石仏を調べたりして、10日余りを過ごしました。そのなかで、外海府(そとかいふ――佐渡島の北西側の海岸線をこう呼びます)のある村で聞いた「六部殺し」の話は、たいへん印象深いものでした。

写真1 佐渡の北端、願(ねがい)地区の「賽の河原」

 六部というのは六十六部の略で、日本の66の国(備前とか讃岐という国です)すべてに法華経を納めるという名目で全国の寺社をめぐる大規模な巡礼、およびその巡礼者のことです。「六部殺し」はその巡礼者が殺される話、多くの場合、六部が大金を所持していることを知った宿の主人が六部を殺して金を奪い、それを元手に成功するものの、報いによってなんらかの不幸を免れなかった、と語られる話です。私自身、この種の話は、福島、鹿児島、それに岡山や香川でも聞いたことがあります。ところが、外海府の村で聞いた話は少々違っていました。


写真2 六十六部
(ノートルダム清心女子大学蔵『日本回国勧懲記』より)

 ここにはかつて、大佐渡一といわれる造り酒屋がありました。土地を流れる水が佐渡一の名水であったという好条件に加え、3代目に酒造りの名人が出たということで、その繁栄ぶりは「酒屋の米が浜に山なす」と歌われるほどだったといいます。
 幕末の頃、この酒屋に、器量がよく、頭もよい一人娘がありました。ある年、村氏神の奉納相撲に、たいへん強く、また男振りのよい相撲取りがやってきます。娘はこの相撲取りに惚れてしまい、一緒になることを切望しました。周囲も折れ、酒屋は男を一人娘に聟として迎えます。このことは酒屋が相撲取りを聟にとったと評判になりました。ところが、この男が、呑む、打つ、買うの三拍子そろった食わせ者でした。親族一同は、このままではカマドを潰されてしまうと危惧し、ムコトリアネ(家督を嗣いだ長女をこう呼びます)が嫌がるところを、無理矢理、男を家から追い出してしまったのです。
 それ以来、娘は放埒をするようになります。この村は相川道(金山で知られる相川と外海府の各村を結ぶ往来)が通っており、上下するいろいろな人間が酒屋に泊まっていくのですが、その中のこれはという男を、次から次へと自分の部屋に引き入れるようになったのです。そうしたなかに旅の六部がいました。(このブログは次回に続きます)