歴史の中の「ある三姉妹」

西尾和美教授

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  今から五百年近く前、戦国時代の安芸(あきの)(くに)(広島県)高田郡の()(りゅう)城に三姉妹がいた。父は同城主宍戸(ししど)隆家(たかいえ)、母は戦国大名毛利(もうり)元就(もとなり)の娘である。彼女たちはやがて、毛利氏にとって重要な意味をもつ婚姻をする。

 上の娘は、瀬戸内海を越えて、当時毛利氏が関係を深める伊予国(愛媛県)へ嫁いだ。対岸とはいえ、現代とは往来の便も異なる。娘も若かったのだろう。母親は自分を育ててくれた信頼厚い乳母(めのと)に懇願して、娘の婚姻に付き添わせた。

  この娘の子が、伊予(いよの)(くに)守護(しゅご)河野(こうの)氏の最後の当主(みち)(なお)である。先代の死後まだ通直は幼く、彼女は実家方の毛利一族と密接につながって大きな力を握ったが、豊臣政権の全国統一の過程で、河野氏は長年の国主の座を追われた。父宍戸隆家が娘と孫の身を案じた書状が残る。

 

 【写真1】伊予河野氏の居城:()築城(づきじょう)跡(愛媛県松山市)


 【写真2】国史跡:湯築城跡家臣団居住区

 

  その後、彼女らは親戚の小早川氏を頼り安芸の竹原に渡るが、まもなく通直は同地で死亡する。1587年、二十代の若さであった。翌春、(とむら)いの高野(こうや)登山で建てられた通直の供養塔と彼女自身の逆修(ぎゃくしゅ)塔(生前の供養塔)が、今も奥の院に並び立つ。晩年と死の事情は不詳である。

 

【写真3】高野山奥の院一の橋付近

【写真4】河野通直母子の五輪塔

 

  中の娘は、祖父元就になかなかの人物と評された。毛利氏を支える吉川(きっかわ)氏に嫁いだが、夫は豊臣政権の全国統一のために出陣した九州で病死する。その後彼女は実家に帰ったと伝わるが、晩年は妹の近くで暮らしたようで、1636年に山口で死んだ。

  末の娘は、1558年に生まれ、十代の初めに元就の孫毛利輝元に嫁ぐ。母に重ねて、毛利・宍戸両家の絆を固める婚姻であった。直後に毛利家では祖父元就、輝元母の死亡が続き、夫妻は、織田・豊臣政権の波が中国地方へ押し寄せ、やがて徳川の世へと移る時代を生きていく。実子はなく、1631年に山口で死んだ。
  姉妹たちは胸中に何を抱え、だれを思い、生涯を生きたのか。その心の(ひだ)は知り得ないが、いつの時代にも、一人ひとりの人間が生きており、忘れられてよい命は一つもない。それが歴史を通して培うべき想像力と謙虚である。わずか七十余年前の国民的記憶の風化が懸念される現在、あらためて胸に刻まれる。

G7サミットと社会学


濱西栄司 准教授

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 2017年5月26-27日に、イタリア・シチリア島のタオルミーナでG7サミットが開催されました。トランプ大統領が参加するということで報道も良くなされていました。

 「サミット」は、もともと冷戦期の「石油ショック」(1973年)後に、先進・資本主義諸国の首脳(大統領/首相、大臣)が、新興国、アラブ産油国、社会主義・共産主義諸国に対抗して、主に経済政策を調整するための場として1975年に始めたものでした。以来、毎年開催され、現在では政治や紛争、テロリズム、気候変動などさまざまなテーマについて話し合う場ともなっています。現在の参加国は仏独英米伊日加の7カ国で、「G7」(Group of 7)サミットとも呼ばれます。

 サミット開催地には、政府要人やNGO、メディアを含め、世界中、開催国中から、多様な集団・組織、個人が集まります(写真)。気候変動問題、エネルギー問題、紛争・テロ、難民、金融危機などの諸問題は基本的に国境を越えた形で発生しますので、先進諸国の首脳たちが一同に集まるサミットは、各国政府にとっても、また(首脳たちに一度に要求できる点で)NGOなどにとっても、貴重な機会なのです。

 

写真 2009年G8サミット時のローマ市中心部バルベリーニ広場の様子(筆者撮影)

 筆者は、これまでサミットをめぐる政府・NGO他の動きについて国際的な比較研究を行ってきました。各サミット時にどういう人たちが、何を主張しているのかを総合的に捉え、適切に比較検討すれば、その時々の世界・社会の全体的状況のある一面を理解することができます。たとえば日本で開催された5つのサミットをめぐって様々な活動を起こした集団・組織の変化は、図1のように整理できます。詳細は避けますが、その変化は、世界情勢の変化や日本社会の変化とも対応しているのです。

 

図1 日本開催5サミットをめぐる集団・組織の変化(濱西2016: 171)

 

 「サミット」は、政治リーダーたちの国際会議の一つですから、政治学や国際関係論の範疇に入るとおもわれがちです。しか、集団・組織の変化を、当該社会の変化と結びつけることができるのであれば、サミットもまた社会学者にとって貴重な研究対象になりえるのです。



参考文献

高瀬淳一、2000、『サミット――主要国首脳会議』芦書房.

野宮大志郎・西城戸誠編、2016、『サミット・プロテスト』新泉社.

濱西栄司、2016、『トゥレーヌ社会学と新しい社会運動理論』新泉社.

徳川将軍への鷹・巣鷹・捕獲鳥の献上


藤實久美子教授

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 2017年は酉年。

 博物館では鳥にちなんだ展覧会が盛んである。今回は、江戸時代の鳥、とくに鷹に関する話をしたいと思う。

 江戸時代、鷹の使用は徳川将軍家や大名などの限られた上級武家によって独占されていた。また鷹が捕らえた獲物は贈答儀礼のなかで重要な位置を占めた。220家を超える大名家より徳川将軍家に贈られる四季折々の産物品―「時献上(ときけんじょう)」の品―は、鮎・海老・鯛、牛蒡・小麦粉・柿・ミカンなど多様であったが、鷹とその捕獲鳥は特別なものであった。

 図版1「黄鷹 きだか」はその年に生まれた鷹である。

 徳川将軍と大名家の贈答互礼の品は、武鑑(ぶかん)という書籍によって調べることができる。武鑑は本屋が編集・出版した大名および幕府役人の名鑑で、江戸時代のロングセラーブックの一つである。

 図版2「天明元年刊 須原屋茂兵衛 版『天明武鑑』第1巻 尾張徳川家 部分」(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)はその一例である。

 一口に武鑑といっても詳細版や抄録版があり、抄録版は4種類ある。今回、探ってみたのは、4冊で一揃えとして売られた「大武鑑」である。

 文政13年(1830)刊の須原屋茂兵衛版『文政武鑑』(深井雅海・藤實編2000『江戸幕府大名武鑑編年集成』15、東洋書林)から、「時献上」のなかの鷹・巣鷹(鷹の巣で捕まえたヒナ鳥)・鷹が捕獲した鳥(鶴・白鳥・雁・鴨)に関する記事をピックアップした。つまり鷹を使用しない網猟、わな猟、追込み狩等での獲物や対馬宗家の「朝鮮寒塩鴨」は含まない。

 

 (1)鷹・巣鷹 10家

  仙台伊達(10月黄鷹)、久保田佐竹(11月若黄鷹)、会津松平(暑中青鷹)、盛岡南部(寒中若黄鷹)、米沢上杉(10月黄鷹)、弘  前津軽(10・11月黄鷹)、松本松平(巣鷹、網懸鷹)、新庄戸沢(10月黄鷹)、高島諏訪(5・6月中巣鷹)、松前(10月若黄鷹13   据・若隼2据)

 (2)鶴 17家

  尾張徳川、紀伊徳川、水戸徳川、松江松平、会津松平、仙台伊達、萩毛利、鳥取池田、岡山池田、津藤堂、盛岡南部、八戸南   部、米沢上杉、姫路酒井、鶴岡酒井、二本松丹羽、中村相馬

 (3)白鳥 5家

  仙台伊達、盛岡南部、多胡松平、二本松丹羽、土浦土屋

 (4)雁 17家

  尾張徳川、紀伊徳川、水戸徳川、高松松平、福井松平、彦根井伊、津藤堂、米沢上杉、松山松平、桑名松平、忍松平、中津奥   平、小倉小笠原、姫路酒井、松山酒井、二本松丹羽、高槻永井

 (5)鴨 30家

  高松松平、加賀前田、大聖寺前田、熊本細川、佐伯毛利、彦根井伊、津藤堂、久留米有馬、米沢上杉、桑名松平、忍松平、中津  奥平、高田榊原ほか

 

 重複する家があるので総数は62家であった。このなか越前福井藩主松平家のように「在国之節拝領之御鷹捉飼 雁・鴨」と、将軍より与えられた「御鷹」で捕らえ、生きたまま雁や鴨を江戸に運んだと考えられる事例がある。一方で、「塩雁」「塩鴨」とあって加工したのちに江戸に輸送した事例がある。

 鷹の飼育と日常的な訓練、渡り鳥に関する情報の入手、実際の狩り、捕獲した鶴・白鳥・雁・鴨の飼育と輸送、塩漬け料理の製作。在国中も大名家は徳川将軍の存在(権威)を意識し、緊張のなかで定例の贈答品の調整に努めたことであろう。

 以上、鷹、鷹の捕獲物の贈答といった鳥と人の関係を歴史的にとらえることで、武家社会の様子が明らかになったと思われる。

 図版3「鷹狩一覧(部分)」(明治6年1873)は国立公文書館デジタルアーカイブ(URLアドレス < http://www.digital.archives.go.jp/ >)より転載した。

第9回学術公開講演会のお知らせ(現代社会学科主催)

「世界遺産パルミラ遺跡の発掘―シリア文化遺産の将来―」

講師 西藤清秀・奈良県立橿原考古学研究所 技術アドバイザー

日時 2017年 6月28日(水)14:45~16:15

場所 第一会議室(学内中央棟8階)
コーディネーター 紺谷亮一・現代社会学科教授


入場無料・事前申し込み不要
ご多用と存じますが、皆さま奮ってご参加ください。

【内容】
 シリア・パルミラ遺跡とは、シリアにあるローマ帝国支配時の都市遺跡です。シリアを代表する遺跡の一つで、2015年にISによって破壊されました。この都市遺跡を1990年~2011年の20年間に渡り、発掘してきた西藤清秀氏をお招きし、パルミラ遺跡の発掘、その後の修復・復元の様子などを、現場で携わってきたから話せるシリアの文化遺産の現状を講演いただきます。また、現在シリア内線などによって、シリアの文化遺産は危機的状況にあります。文化遺産をどのように守り、そして、将来に残していくのかについて考えます。

【西藤清秀先生のご紹介】
奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長、元日本西アジア考古学会会長を経て、現在同研究所技術アドバイザー、奈良女子大学考古学学術研究センター特任教授、2016年日本イコモス賞受賞

西藤清秀氏は、シリア・パルミラ遺跡(オリエントを代表する古代隊商都市でゼノビア女王の時代に最盛期を迎えたが、ローマ帝国の怒りを買い、ローマ軍に滅ぼされた)を1990年~2011年まで、20年間に渡り、発掘調査してきた。特に2世紀から3世紀の墓7基 の発掘調査は世界的にも注目された。発掘後はシリア古物博物館総局との合意のもとに、地下墓の修復・復元を精力的に行い、現地の観光事業にも大きく貢献した。 2011年からのシリア内戦により多大の文化財が強奪・盗掘・破壊にさらされる状況下、西藤氏は日本西アジア考古学会長(任期:20132016年)として、世界に先駆けて、シリア文化財関係者のための「シリア考古学・文化遺産国際会議」"Inter national Syrian Congress on Archaeology and Cultural Heritage (ISCACH): Result of 2000 to 2011"をレバノンのベイルートで2016123日~6日まで開催した。


問い合わせ先 〒700-8516 岡山市北区伊福町2-16-9
        ノートルダム清心女子大学文学部現代社会学科 横田・紺谷

なぜベトナム人は日本へ働きに行くのか?


二階堂裕子 准教授

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 「ベトナム」といえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

 インドシナ半島東南部に位置するベトナムは、南北に細長い国で、人口約9,270万人(2016年現在、ベトナム統計総局)を抱えています。就業者の約4割が農林水産業に従事しており、コメ、コーヒー、天然ゴムなどをはじめとする多数の農作物が世界有数の生産量を誇る農業大国です。

 ところで、近年、日本で生活するベトナム国籍の人々が急激に増えています。2000年は16,908人であったのが、2016年には203,653人にも達しており(法務省在留外国人統計)、この16年間で12倍に増加しています。このうち、とりわけ増加が著しいのは、日本で最大3年間就労するために来日した「技能実習生」と呼ばれるベトナム人です。

 では、なぜ、多くのベトナム人が海外での就労先として日本を選ぶのでしょうか?もちろん、「日本で働けば高賃金が得られるから」という理由が考えられますが、ベトナムよりも賃金の高い国は他にも多くあるはずです。この問いを明らかにするためには、ベトナム社会の状況やベトナム人の意識を知る必要があると考え、ここ数年間、私はベトナムでのフィールドワークを続けています。

 

 1980年代後半から「ドイモイ(刷新)政策」を推進しているベトナムは、海外企業の誘致に力を入れていることも功を奏して、1990 年代半ば以降、高い経済成長率を維持しています。実際にベトナムを訪問すると、日本とベトナムの経済的・文化的な結びつきが年々強化されつつあることを実感します。たとえば、ベトナムではバイクのことを「HONDA」と呼ぶ人が少なくありません。それほど、日本のバイクが多く愛用されているのです(写真1)。また、2014年よりベトナムにイオンモールが4店舗オープンし、多くの買い物客で賑わっています(写真2)。このほか、書店のマンガコーナーに行けば、「ドラえもん」や「コナン」のシリーズが書棚の大部分を占めており、日本のアニメーションに対する人気の高さをうかがい知ることができます(写真3)。実際に、技能実習生に対するインタビューでは、「ドラえもんを読んで、日本に憧れを抱いた」といった声を度々耳にしました。さらに、日本との関係が強化されるにともない、大学のほか、高校や小・中学校でも日本語教育を開始する学校が増えています。

写真1 ベトナム人の生活の足であるバイク(2012年3月撮影)

 

写真2 日本の食材が豊富なイオンモール(2016年3月撮影)

写真3 ベトナムでは「ドレーモン」と呼ばれています(2015年6月撮影)

 

 つまり、ベトナムの社会において日本の文化や技術は深く浸透しており、日常的な「日本」との接触によって、ベトナムの人々の間に日本への親しみや憧れが生まれていると言えるでしょう。また、日本で技能実習生として就労した期間に、高い日本語能力を身につけた人の場合、ベトナムへ帰国後、現地の日系企業への就職を有利に進めることができ、ベトナムの一般企業で働くよりも高賃金を得られるということもわかりました。こうした要因が、ベトナム人の日本就労を促しているようです。

 このように、フィールドワークを通じて、ある社会の人々の意識と行動の関係を、よりリアルに把握することができるのです。