なぜベトナム人は日本へ働きに行くのか?


二階堂裕子 准教授

「教員紹介」ページへ

「ベトナム」といえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

インドシナ半島東南部に位置するベトナムは、南北に細長い国で、人口約9,270万人(2016年現在、ベトナム統計総局)を抱えています。就業者の約4割が農林水産業に従事しており、コメ、コーヒー、天然ゴムなどをはじめとする多数の農作物が世界有数の生産量を誇る農業大国です。

 ところで、近年、日本で生活するベトナム国籍の人々が急激に増えています。2000年は16,908人であったのが、2016年には203,653人にも達しており(法務省在留外国人統計)、この16年間で12倍に増加しています。このうち、とりわけ増加が著しいのは、日本で最大3年間就労するために来日した「技能実習生」と呼ばれるベトナム人です。

では、なぜ、多くのベトナム人が海外での就労先として日本を選ぶのでしょうか?もちろん、「日本で働けば高賃金が得られるから」という理由が考えられますが、ベトナムよりも賃金の高い国は他にも多くあるはずです。この問いを明らかにするためには、ベトナム社会の状況やベトナム人の意識を知る必要があると考え、ここ数年間、私はベトナムでのフィールドワークを続けています。

 

1980年代後半から「ドイモイ(刷新)政策」を推進しているベトナムは、海外企業の誘致に力を入れていることも功を奏して、1990 年代半ば以降、高い経済成長率を維持しています。実際にベトナムを訪問すると、日本とベトナムの経済的・文化的な結びつきが年々強化されつつあることを実感します。たとえば、ベトナムではバイクのことを「HONDA」と呼ぶ人が少なくありません。それほど、日本のバイクが多く愛用されているのです(写真1)。また、2014年よりベトナムにイオンモールが4店舗オープンし、多くの買い物客で賑わっています(写真2)。このほか、書店のマンガコーナーに行けば、「ドラえもん」や「コナン」のシリーズが書棚の大部分を占めており、日本のアニメーションに対する人気の高さをうかがい知ることができます(写真3)。実際に、技能実習生に対するインタビューでは、「ドラえもんを読んで、日本に憧れを抱いた」といった声を度々耳にしました。さらに、日本との関係が強化されるにともない、大学のほか、高校や小・中学校でも日本語教育を開始する学校が増えています。

写真1 ベトナム人の生活の足であるバイク(2012年3月撮影)

 

写真2 日本の食材が豊富なイオンモール(2016年3月撮影)

写真3 ベトナムでは「ドレーモン」と呼ばれています(2015年6月撮影)

 

つまり、ベトナムの社会において日本の文化や技術は深く浸透しており、日常的な「日本」との接触によって、ベトナムの人々の間に日本への親しみや憧れが生まれていると言えるでしょう。また、日本で技能実習生として就労した期間に、高い日本語能力を身につけた人の場合、ベトナムへ帰国後、現地の日系企業への就職を有利に進めることができ、ベトナムの一般企業で働くよりも高賃金を得られるということもわかりました。こうした要因が、ベトナム人の日本就労を促しているようです。

このように、フィールドワークを通じて、ある社会の人々の意識と行動の関係を、よりリアルに把握することができるのです。





聖書の中の社会調査


中山 ちなみ 講師

「教員紹介」ページへ

 

 

 

 2015(平成27)年10月に実施された国勢調査は、インターネットによる回答方式が初めて全国的に導入されたことで記憶に残っている方も多いかもしれません。この調査によると、2015年10月1日現在の日本の人口は1億2709万4745人であり、前回2010年調査と比較すると96万2607人の減少となりました。日本の国勢調査は1920(大正9)年にスタートし、戦後の一時期を例外として5年ごとに実施されていますが、第20回目となった2015年調査で初めて、我が国の人口が減少に転じたという点でも大きな注目を集めました。

 国勢調査はセンサス(census)とも呼ばれ、国内の人口や世帯の実態を把握する目的で定期的に実施されるものです。その結果は、例えば各選挙区の議員定数や地方交付税の配分を定めたり、少子高齢化の将来予測や地域人口の将来の見通しを考えたりするための基礎データとして、幅広く利用されています。国勢調査の実施のために、全国で約70万人の国勢調査員が動員され、1回の調査に計上される予算は数十億円にものぼります。また、国勢調査の集計結果が公表されるのは調査から約1年後であることからも、国勢調査が扱うデータ量がいかに膨大であるかがわかるでしょう。国勢調査は、まさに国家の一大事業なのです。




写真1 国勢調査調査票・表面(平成17年のもの)

写真1 国勢調査調査票・表面(平成17年のもの)

 

 ところで、話は突然変わりますが、クリスマスの時期などにキリスト誕生の話を読んだり聞いたりしたとき、イエス・キリストがなぜ馬小屋で生まれたのか、マリア様は身重の体にもかかわらずなぜ旅をしたのか、不思議に感じたことはありませんか。「ルカによる福音書」第2章1-7節には次のように記されています。

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(新共同訳『聖書』日本聖書協会)

 

写真2 マッティア・プレティ「羊飼いの礼拝」ウォーカー・アート・ギャラリー収蔵

写真2 マッティア・プレティ「羊飼いの礼拝」
ウォーカー・アート・ギャラリー収蔵(1660-1699


 

 この記述からは、皇帝が人口調査の命令を出したため、ヨセフは本籍地であるベツレヘムで登録をしなければならず、当時住んでいたナザレを離れて、マリアを連れて旅をしていたということがわかります。しかし、同じ目的で旅をする人びとが多かったために宿がいっぱいで、やむをえず馬小屋に泊まったということなのでしょう。これが史実であるかについては諸説あるようですが、聖書の時代にすでに国勢調査がおこなわれていたことは事実です。

 じつは社会調査の最も古いルーツは、古代の王や皇帝がおこなった人口調査です。国家を維持し、運営するためには、徴税や徴兵のしくみを整備することが不可欠となります。どの地方からどのくらい税が取れるか、どの地方から何人ぐらい兵を集められるのかといったデータを定期的に更新して、民衆の実態を量的に把握することが支配者にとって何より大切なことでした。国勢調査は昔も、国家の一大事業であったのです。

 このように、社会調査のルーツが権力の道具という側面を持っていたことを、わたしたちは知っておく必要があるでしょう。そして、社会調査が当時の人びとの生活に大きな影響を及ぼすものであったからこそ、その一端が、聖書の中に垣間見えているのではないでしょうか。



参考
大谷信介 他『新・社会調査へのアプローチ』ミネルヴァ書房



 2016年度の現代社会学科研修旅行は、12月8日に西播磨を巡るコースで実施された。はじめに、行基が開いたとされる摂播五泊の一つである室津を訪れた。現在でこそ小さな漁港に過ぎないが、かつては朝鮮通信使や西国大名が立ち寄る重要港湾であり、本陣だけでも5軒を数え、参勤交代時には室津で船を下り、陸路で江戸に向かう水陸交通の重要な結節点となっていた。港は北側を山、東と南を自然の防波堤の機能を持つ半島で囲まれ、天然の良港となっている。現地ではボランティアガイドの方から説明を受けながら、歴史を感じる路地をたどり、室津海駅館、室津民俗館、賀茂神社などを巡った。岬の丘にある賀茂神社は平清盛が厳島詣の折に立ち寄ったことでも知られ、展望所からは家島や小豆島が彼方に浮かぶ瀬戸内海の絶景を眺めることができた。





写真1 室津港

室津港でのボランティアガイドによる説明



 昼食後は次の訪問地、永富家住宅に向かった。重要文化財である住宅は、長屋門を入ったところにある主屋がひときわ目をひく。二階建て・本瓦葺きの農家風建築で、播磨における庄屋住宅のもっとも発達した形態を残しており、外観だけでなく内部の構造も立派で、多くの付随建物や庭の美しさに驚かされた。なお、永富家は子孫が鹿島家に婿入りし、鹿島建設の社長となったことでも知られている。


写真2 永富家住宅永富家住宅の立派な梁


 最後に、淡口醤油と素麺「揖保乃糸」及び「赤とんぼ」作詞者三木露風の出身地で知られる城下町龍野を訪問した。龍野城は中世に赤松氏が築いた山城を起源とし、寛文12(1672)年に移封された脇坂氏が現在地に平山城を築城したものである。天守閣は当初からなく、本丸御殿、城壁、多聞櫓などが復元されている。かつての城郭内には検察庁・裁判所・龍野小学校などの公共施設が立地しているのは、歴史地理学の法則どおりである。その城郭内にある歴史文化資料館や霞城館を見学した後、白壁の土塀が残る旧脇坂屋敷付近を散策し、城下町の情緒を味わいながら最後の見学地である「うすくち龍野醤油資料館」に向かった。入館者数のカウント用であろうが、入館料10円がほほえましい。見学後は三々五々、あまり人気のない町屋地区をたどって駐車場に向かった。途中の菓子店で買った名物の醤油まんじゅうをほおばりながら、龍野の町を後にしたのは帳が降りるころであった。




写真3 龍野菓子店城下町龍野の菓子店にて
                         



                                                      文責 河合保生

トルコの遊牧民


紺谷 亮一 教授

「教員紹介」ページへ

 

 

 私は長年トルコで遺跡の発掘調査をしているが、その合間に何度か遊牧民の集落を訪れたことがある。遊牧民といっても現代では都市で暮らす人々とその様相は変わらない。例えば、携帯電話を持っているし、ヤギやヒツジを遠距離で移動させる際にはトラックやトラクターを使用している。暮らしているテントも以前 は黒ヤギの毛で作られた織物が使われていたが、今ではブルーシートに置き換わっている。

 私が標高2,000mを超える遊牧民の集落を訪れたのは9月下旬であった。遊牧民達はシリア国境付近で冬季を過ごし、夏季になると涼しさを求めて標高の高い場所へ移動してくる。このような場所を夏営地と呼ぶ。夏営地では約50人が約500頭の家畜を管理している。








写真1 ヒツジの群れ(写真1 ヒツジの群れ)



 我々は彼らの遊牧の移動ルートを知るためにヒツジの首にGPSを装着し、後日それを回収させてもらうことにした。GPSのデータからは興味深いことがわかった。遊牧民は基本的に夜間放牧を行っていた。これは日中の暑さから家畜を守るためである。夏営地を数人の牧人が全家畜を出発するのは夕方、深夜をふくめて、計3回程、家畜が草を食べるために立ち止まっていることがわかった。

 牧人は家畜が草を食べる間に休憩をとる。その際ケペネックというヒツジの毛で編んだマントを着て仮眠する。ケペネックを実際に着させてもらったがまるでモモンガのような姿になる。彼らの夜間放牧ルートは谷を周回するもので、朝方にはもとの夏営地にもどってくる。



写真2 ヒツジの首にGPS装着(写真2 ヒツジの首にGPS装着)



 この移動ルートから考古学的なある事例が気になった。我々が遺跡分布調査をしていると同じ谷筋に、数千年前の複数の遺物(土器が主)散布地がみつかることがある。従来、これらは各々が単独の遺跡として認識されていた。だが、もしかすると、これらの遺物散布地は独立したものではなく、同一の遊牧民が移動したキャンプサイトではないか?そのようなイメージが沸々と沸いてきたのである。また遊牧民達とどこかで再会したい。




陰陽五行説という思想


鈴木 真 准教授

「教員紹介」ページへ

 

 

 2017年は酉年(とりどし)です。むかしのように干支(かんし,十干十二支)でいうと「丁酉(ていゆう)」,和風に読むと「丁酉(ひのととり)」の年となります。
 干支とは,十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)とを組み合わせたもので全60パターンあり,かつてはおもに年月日を呼称する際に用いられました。「甲子」から始まり,60番目の「癸亥」までくると,また「甲子」に戻ります。「壬申」「乙巳」「戊辰」などを冠した歴史上の出来事や,「丙午」や「庚申」などの俗信・習俗,あるいは「甲子」の年に誕生した野球場などが有名かもしれません。



写真1:五行説に基づき配置してみた縁起物の招き猫

写真1:五行説に基づき配置してみた縁起物の招き猫
(岡山市の招き猫美術館よりご恵贈いただきました)

 

 

  ところで来年の「丁酉」の「丁」の和読みがどうして「ひのと」なのかといいますと,これは「火の弟」を意味するからで,古代中国で体系化された陰陽五行説と関係しています。陰陽説では,すべての事象は「陽」の気と「陰」の気にわかれます。さらに五行説では,それらの事象は,「木」・「火」・「土」・「金」・「水」の五つの要素のどれかに対応すると考えられました。

たとえば色。 「木」は青,「火」は赤,「土」は黄, 「金」は白,「水」は黒。
たとえば方角。「木」は東,「火」は南,「土」は中央,「金」は西,「水」は北。
たとえば季節。「木」は春,「火」は夏,「土」は土用,「金」は秋,「水」は冬。
 「青春」「朱夏」という単語や,某詩人の「白秋」という号,あるいは「馬耳東風」の「東風」が「春風」を意味するのは,この思想に基づいたものです。みなさんの身近にも存在するかもしれません。

 上で述べた干支も,陰陽五行説に対応します。十干の場合,2つをワンセットにして,甲乙は「木」に,丙丁は「火」に,戊己は「土」に,庚辛は「金」に,壬癸は「水」に対応します。
 そして,「木」に対応する甲乙をさらに「陽」と「陰」とに分け,甲を「陽」として「木の兄(きのえ)」,乙を「陰」として「木の弟(きのと)」とします。同様に,丙丁は「火」に対応するため,丙は「火の兄(ひのえ)」,「丁」は「火の弟(ひのと)」となるわけですね(ちなみに「酉」は,五行の「金」に対応します)。



 

写真2:文瀾閣の「四庫全書」保管用書庫(現代のもの)

写真2:文瀾閣の「四庫全書」保管用書庫(現代のもの)

 

  この思想は,中国ではいろいろな場面で用いられました。たとえば清朝では,乾隆帝(在位1735~1795)の勅命により多数の学者が動員され,八万巻にせまるとてつもない規模の一大叢書が編纂されました。「四庫全書」と呼ばれるこの叢書は合計7セットがつくられ,北京の宮廷内の文淵閣をはじめ,中国各地の文源閣・文溯閣・文津閣・文宗閣・文匯閣・文瀾閣などの所蔵用建物に分置されました。このとき四庫全書は,黒塗りの書庫に厳重に保管されたといいます。なぜ「黒」塗りの書庫だったのでしょうか? 


写真3:文瀾閣の域内にある池

写真3:文瀾閣の域内にある池
 
 

  ヒントは,「文淵閣」など所蔵用建物の名称のほとんどに「サンズイ」がついていたこと,建物には池が併置されていたこと,です。当時はそれほど火災が書物の大敵であったわけです。
 以上はちょっとした一例にすぎませんが,長い中国の歴史においては,この陰陽五行説が時の王朝国家の統治理念にまで影響を及ぼしていた時期があったほどで,身近でありつつもなかなかに重要な思想なのです。