徳川将軍への鷹・巣鷹・捕獲鳥の献上


藤實久美子教授

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2017年は酉年。

博物館では鳥にちなんだ展覧会が盛んである。今回は、江戸時代の鳥、とくに鷹に関する話をしたいと思う。

江戸時代、鷹の使用は徳川将軍家や大名などの限られた上級武家によって独占されていた。また鷹が捕らえた獲物は贈答儀礼のなかで重要な位置を占めた。220家を超える大名家より徳川将軍家に贈られる四季折々の産物品―「時献上(ときけんじょう)」の品―は、鮎・海老・鯛、牛蒡・小麦粉・柿・ミカンなど多様であったが、鷹とその捕獲鳥は特別なものであった。

図版1「黄鷹 きだか」はその年に生まれた鷹である。

徳川将軍と大名家の贈答互礼の品は、武鑑(ぶかん)という書籍によって調べることができる。武鑑は本屋が編集・出版した大名および幕府役人の名鑑で、江戸時代のロングセラーブックの一つである。

図版2「天明元年刊 須原屋茂兵衛 版『天明武鑑』第1巻 尾張徳川家 部分」(早稲田大学図書館古典籍総合データベース)はその一例である。

一口に武鑑といっても詳細版や抄録版があり、抄録版は4種類ある。今回、探ってみたのは、4冊で一揃えとして売られた「大武鑑」である。

文政13年(1830)刊の須原屋茂兵衛版『文政武鑑』(深井雅海・藤實編2000『江戸幕府大名武鑑編年集成』15、東洋書林)から、「時献上」のなかの鷹・巣鷹(鷹の巣で捕まえたヒナ鳥)・鷹が捕獲した鳥(鶴・白鳥・雁・鴨)に関する記事をピックアップした。つまり鷹を使用しない網猟、わな猟、追込み狩等での獲物や対馬宗家の「朝鮮寒塩鴨」は含まない。

 

(1)鷹・巣鷹 10家

仙台伊達(10月黄鷹)、久保田佐竹(11月若黄鷹)、会津松平(暑中青鷹)、盛岡南部(寒中若黄鷹)、米沢上杉(10月黄鷹)、弘前津軽(10・11月黄鷹)、松本松平(巣鷹、網懸鷹)、新庄戸沢(10月黄鷹)、高島諏訪(5・6月中巣鷹)、松前(10月若黄鷹13据・若隼2据)

(2)鶴 17家

尾張徳川、紀伊徳川、水戸徳川、松江松平、会津松平、仙台伊達、萩毛利、鳥取池田、岡山池田、津藤堂、盛岡南部、八戸南部、米沢上杉、姫路酒井、鶴岡酒井、二本松丹羽、中村相馬

(3)白鳥 5家

  仙台伊達、盛岡南部、多胡松平、二本松丹羽、土浦土屋

(4)雁 17家

  尾張徳川、紀伊徳川、水戸徳川、高松松平、福井松平、彦根井伊、津藤堂、米沢上杉、松山松平、桑名松平、忍松平、中津奥平、小倉小笠原、姫路酒井、松山酒井、二本松丹羽、高槻永井

(5)鴨 30家

  高松松平、加賀前田、大聖寺前田、熊本細川、佐伯毛利、彦根井伊、津藤堂、久留米有馬、米沢上杉、桑名松平、忍松平、中津奥平、高田榊原ほか

 

重複する家があるので総数は62家であった。このなか越前福井藩主松平家のように「在国之節拝領之御鷹捉飼 雁・鴨」と、将軍より与えられた「御鷹」で捕らえ、生きたまま雁や鴨を江戸に運んだと考えられる事例がある。一方で、「塩雁」「塩鴨」とあって加工したのちに江戸に輸送した事例がある。

鷹の飼育と日常的な訓練、渡り鳥に関する情報の入手、実際の狩り、捕獲した鶴・白鳥・雁・鴨の飼育と輸送、塩漬け料理の製作。在国中も大名家は徳川将軍の存在(権威)を意識し、緊張のなかで定例の贈答品の調整に努めたことであろう。

以上、鷹、鷹の捕獲物の贈答といった鳥と人の関係を歴史的にとらえることで、武家社会の様子が明らかになったと思われる。

図版3「鷹狩一覧(部分)」(明治6年1873)は国立公文書館デジタルアーカイブ(URLアドレス< http://www.digital.archives.go.jp/ >)より転載した。

第9回学術公開講演会のお知らせ(現代社会学科主催)

「世界遺産パルミラ遺跡の発掘―シリア文化遺産の将来―」

講師 西藤清秀・奈良県立橿原考古学研究所 技術アドバイザー

日時 2017年 6月28日(水)14:45~16:15

場所 第一会議室(学内中央棟8階)
コーディネーター 紺谷亮一・現代社会学科教授


入場無料・事前申し込み不要
ご多用と存じますが、皆さま奮ってご参加ください。

【内容】
 シリア・パルミラ遺跡とは、シリアにあるローマ帝国支配時の都市遺跡です。シリアを代表する遺跡の一つで、2015年にISによって破壊されました。この都市遺跡を1990年~2011年の20年間に渡り、発掘してきた西藤清秀氏をお招きし、パルミラ遺跡の発掘、その後の修復・復元の様子などを、現場で携わってきたから話せるシリアの文化遺産の現状を講演いただきます。また、現在シリア内線などによって、シリアの文化遺産は危機的状況にあります。文化遺産をどのように守り、そして、将来に残していくのかについて考えます。

【西藤清秀先生のご紹介】
奈良県立橿原考古学研究所副所長兼附属博物館館長、元日本西アジア考古学会会長を経て、現在同研究所技術アドバイザー、奈良女子大学考古学学術研究センター特任教授、2016年日本イコモス賞受賞

西藤清秀氏は、シリア・パルミラ遺跡(オリエントを代表する古代隊商都市でゼノビア女王の時代に最盛期を迎えたが、ローマ帝国の怒りを買い、ローマ軍に滅ぼされた)を1990年~2011年まで、20年間に渡り、発掘調査してきた。特に2世紀から3世紀の墓7基 の発掘調査は世界的にも注目された。発掘後はシリア古物博物館総局との合意のもとに、地下墓の修復・復元を精力的に行い、現地の観光事業にも大きく貢献した。 2011年からのシリア内戦により多大の文化財が強奪・盗掘・破壊にさらされる状況下、西藤氏は日本西アジア考古学会長(任期:20132016年)として、世界に先駆けて、シリア文化財関係者のための「シリア考古学・文化遺産国際会議」"Inter national Syrian Congress on Archaeology and Cultural Heritage (ISCACH): Result of 2000 to 2011"をレバノンのベイルートで2016123日~6日まで開催した。


問い合わせ先 〒700-8516 岡山市北区伊福町2-16-9
        ノートルダム清心女子大学文学部現代社会学科 横田・紺谷

なぜベトナム人は日本へ働きに行くのか?


二階堂裕子 准教授

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「ベトナム」といえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

インドシナ半島東南部に位置するベトナムは、南北に細長い国で、人口約9,270万人(2016年現在、ベトナム統計総局)を抱えています。就業者の約4割が農林水産業に従事しており、コメ、コーヒー、天然ゴムなどをはじめとする多数の農作物が世界有数の生産量を誇る農業大国です。

 ところで、近年、日本で生活するベトナム国籍の人々が急激に増えています。2000年は16,908人であったのが、2016年には203,653人にも達しており(法務省在留外国人統計)、この16年間で12倍に増加しています。このうち、とりわけ増加が著しいのは、日本で最大3年間就労するために来日した「技能実習生」と呼ばれるベトナム人です。

では、なぜ、多くのベトナム人が海外での就労先として日本を選ぶのでしょうか?もちろん、「日本で働けば高賃金が得られるから」という理由が考えられますが、ベトナムよりも賃金の高い国は他にも多くあるはずです。この問いを明らかにするためには、ベトナム社会の状況やベトナム人の意識を知る必要があると考え、ここ数年間、私はベトナムでのフィールドワークを続けています。

 

1980年代後半から「ドイモイ(刷新)政策」を推進しているベトナムは、海外企業の誘致に力を入れていることも功を奏して、1990 年代半ば以降、高い経済成長率を維持しています。実際にベトナムを訪問すると、日本とベトナムの経済的・文化的な結びつきが年々強化されつつあることを実感します。たとえば、ベトナムではバイクのことを「HONDA」と呼ぶ人が少なくありません。それほど、日本のバイクが多く愛用されているのです(写真1)。また、2014年よりベトナムにイオンモールが4店舗オープンし、多くの買い物客で賑わっています(写真2)。このほか、書店のマンガコーナーに行けば、「ドラえもん」や「コナン」のシリーズが書棚の大部分を占めており、日本のアニメーションに対する人気の高さをうかがい知ることができます(写真3)。実際に、技能実習生に対するインタビューでは、「ドラえもんを読んで、日本に憧れを抱いた」といった声を度々耳にしました。さらに、日本との関係が強化されるにともない、大学のほか、高校や小・中学校でも日本語教育を開始する学校が増えています。

写真1 ベトナム人の生活の足であるバイク(2012年3月撮影)

 

写真2 日本の食材が豊富なイオンモール(2016年3月撮影)

写真3 ベトナムでは「ドレーモン」と呼ばれています(2015年6月撮影)

 

つまり、ベトナムの社会において日本の文化や技術は深く浸透しており、日常的な「日本」との接触によって、ベトナムの人々の間に日本への親しみや憧れが生まれていると言えるでしょう。また、日本で技能実習生として就労した期間に、高い日本語能力を身につけた人の場合、ベトナムへ帰国後、現地の日系企業への就職を有利に進めることができ、ベトナムの一般企業で働くよりも高賃金を得られるということもわかりました。こうした要因が、ベトナム人の日本就労を促しているようです。

このように、フィールドワークを通じて、ある社会の人々の意識と行動の関係を、よりリアルに把握することができるのです。





聖書の中の社会調査


中山 ちなみ 講師

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 2015(平成27)年10月に実施された国勢調査は、インターネットによる回答方式が初めて全国的に導入されたことで記憶に残っている方も多いかもしれません。この調査によると、2015年10月1日現在の日本の人口は1億2709万4745人であり、前回2010年調査と比較すると96万2607人の減少となりました。日本の国勢調査は1920(大正9)年にスタートし、戦後の一時期を例外として5年ごとに実施されていますが、第20回目となった2015年調査で初めて、我が国の人口が減少に転じたという点でも大きな注目を集めました。

 国勢調査はセンサス(census)とも呼ばれ、国内の人口や世帯の実態を把握する目的で定期的に実施されるものです。その結果は、例えば各選挙区の議員定数や地方交付税の配分を定めたり、少子高齢化の将来予測や地域人口の将来の見通しを考えたりするための基礎データとして、幅広く利用されています。国勢調査の実施のために、全国で約70万人の国勢調査員が動員され、1回の調査に計上される予算は数十億円にものぼります。また、国勢調査の集計結果が公表されるのは調査から約1年後であることからも、国勢調査が扱うデータ量がいかに膨大であるかがわかるでしょう。国勢調査は、まさに国家の一大事業なのです。




写真1 国勢調査調査票・表面(平成17年のもの)

写真1 国勢調査調査票・表面(平成17年のもの)

 

 ところで、話は突然変わりますが、クリスマスの時期などにキリスト誕生の話を読んだり聞いたりしたとき、イエス・キリストがなぜ馬小屋で生まれたのか、マリア様は身重の体にもかかわらずなぜ旅をしたのか、不思議に感じたことはありませんか。「ルカによる福音書」第2章1-7節には次のように記されています。

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(新共同訳『聖書』日本聖書協会)

 

写真2 マッティア・プレティ「羊飼いの礼拝」ウォーカー・アート・ギャラリー収蔵

写真2 マッティア・プレティ「羊飼いの礼拝」
ウォーカー・アート・ギャラリー収蔵(1660-1699


 

 この記述からは、皇帝が人口調査の命令を出したため、ヨセフは本籍地であるベツレヘムで登録をしなければならず、当時住んでいたナザレを離れて、マリアを連れて旅をしていたということがわかります。しかし、同じ目的で旅をする人びとが多かったために宿がいっぱいで、やむをえず馬小屋に泊まったということなのでしょう。これが史実であるかについては諸説あるようですが、聖書の時代にすでに国勢調査がおこなわれていたことは事実です。

 じつは社会調査の最も古いルーツは、古代の王や皇帝がおこなった人口調査です。国家を維持し、運営するためには、徴税や徴兵のしくみを整備することが不可欠となります。どの地方からどのくらい税が取れるか、どの地方から何人ぐらい兵を集められるのかといったデータを定期的に更新して、民衆の実態を量的に把握することが支配者にとって何より大切なことでした。国勢調査は昔も、国家の一大事業であったのです。

 このように、社会調査のルーツが権力の道具という側面を持っていたことを、わたしたちは知っておく必要があるでしょう。そして、社会調査が当時の人びとの生活に大きな影響を及ぼすものであったからこそ、その一端が、聖書の中に垣間見えているのではないでしょうか。



参考
大谷信介 他『新・社会調査へのアプローチ』ミネルヴァ書房



 2016年度の現代社会学科研修旅行は、12月8日に西播磨を巡るコースで実施された。はじめに、行基が開いたとされる摂播五泊の一つである室津を訪れた。現在でこそ小さな漁港に過ぎないが、かつては朝鮮通信使や西国大名が立ち寄る重要港湾であり、本陣だけでも5軒を数え、参勤交代時には室津で船を下り、陸路で江戸に向かう水陸交通の重要な結節点となっていた。港は北側を山、東と南を自然の防波堤の機能を持つ半島で囲まれ、天然の良港となっている。現地ではボランティアガイドの方から説明を受けながら、歴史を感じる路地をたどり、室津海駅館、室津民俗館、賀茂神社などを巡った。岬の丘にある賀茂神社は平清盛が厳島詣の折に立ち寄ったことでも知られ、展望所からは家島や小豆島が彼方に浮かぶ瀬戸内海の絶景を眺めることができた。





写真1 室津港

室津港でのボランティアガイドによる説明



 昼食後は次の訪問地、永富家住宅に向かった。重要文化財である住宅は、長屋門を入ったところにある主屋がひときわ目をひく。二階建て・本瓦葺きの農家風建築で、播磨における庄屋住宅のもっとも発達した形態を残しており、外観だけでなく内部の構造も立派で、多くの付随建物や庭の美しさに驚かされた。なお、永富家は子孫が鹿島家に婿入りし、鹿島建設の社長となったことでも知られている。


写真2 永富家住宅永富家住宅の立派な梁


 最後に、淡口醤油と素麺「揖保乃糸」及び「赤とんぼ」作詞者三木露風の出身地で知られる城下町龍野を訪問した。龍野城は中世に赤松氏が築いた山城を起源とし、寛文12(1672)年に移封された脇坂氏が現在地に平山城を築城したものである。天守閣は当初からなく、本丸御殿、城壁、多聞櫓などが復元されている。かつての城郭内には検察庁・裁判所・龍野小学校などの公共施設が立地しているのは、歴史地理学の法則どおりである。その城郭内にある歴史文化資料館や霞城館を見学した後、白壁の土塀が残る旧脇坂屋敷付近を散策し、城下町の情緒を味わいながら最後の見学地である「うすくち龍野醤油資料館」に向かった。入館者数のカウント用であろうが、入館料10円がほほえましい。見学後は三々五々、あまり人気のない町屋地区をたどって駐車場に向かった。途中の菓子店で買った名物の醤油まんじゅうをほおばりながら、龍野の町を後にしたのは帳が降りるころであった。




写真3 龍野菓子店城下町龍野の菓子店にて
                         



                                                      文責 河合保生