学長のキュルテペ遺跡訪問


紺谷 亮一 教授

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 2017年のキュルテペ遺跡発掘調査では大きなイベントがあった。8月22日に原田豊己学長が遺跡を訪問されたのである。学長はご本人がローマに留学されて以来、オリエントの遺跡に深い興味を持たれている。過去にトルコも幾度か訪れ、カッパドキア教会遺跡群(キュルテペ近郊)も見学されたそうだ。そのことからも、我々が行っている発掘調査に深い関心をよせられて、前々から発掘現場を訪れたいとおっしゃっていた。我々調査隊としても現場を見て頂くことは、考古学調査に関する知見を深めて頂く為にも、願ってもないことであった。

 現場では、フィクリ・クラックオウル発掘隊長の案内で、酷暑にも関わらず精力的に遺跡を見学された(写真1)。

写真1               写真1 隊長から説明を受ける学長

 また、我々が発掘中の深さ5.5mの発掘区の中にも降りられ、5,000年前の遺構を熱心に観察されていた(写真2)。若い日本人の発掘隊員が黙々と調査している様子を見て感動されているようであった。

写真2                 写真2 発掘区におりた学長

トルコ側にとっても学長の訪問はサプライズであったらしく、「コンタニ、お前は理解ある学長に恵まれて幸せだなぁ」と羨ましがられた。そこにはトルコ人といつでもどこでも、気さくに話される原田学長の人柄によるところも大きいと思われる。

 その後はキュルテペの北200kmに位置する、ヒッタイト帝国の首都であったハットゥシャ(ドイツ隊が調査)の遺跡にお連れした。そこでは大戦中も発掘を継続したドイツ人の執念に圧倒されたと何回もおっしゃっていた。移動の車中では、日本、トルコ、考古学、大学等、様々な事柄についてざっくばらんにお話させて頂いた。私にとっては改めて自らがトルコで発掘する意味、研究テーマの学問的意義、学生にトルコの歴史を講義する意味について深く考える機会となった。

 その後、首都アンカラに行き、アナトリア文明博物館、私が留学していたアンカラ大学をご案内した。学長が「紺谷さん、あなたはこの街で本当に長く勉強したんですねぇ」ともらされたのを聞いて、「何で自分はそんなに長くアンカラにいたのだろう?」と改めて考えた。私に対してアンカラ大学の先生方、友人等多くのトルコ人の協力がなければ、今日の発掘調査に至ることは絶対になかった。そんなことを思いつつ、その夜はアンカラのレストランで原田学長とビールで乾杯していると、来年度の調査への意欲がひたひたと湧き上がってきた(写真3)。
                 写真3 アンカラのレストラン

皇帝と黄龍


鈴木 真 准教授

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 以前の現代社会学科ブログ【26】では,中国の「五行説」という思想を紹介しました。この思想では,季節や方角や色などのさまざまなものが木・火・土・金・水の五行に対応する,と考えられていました。
 それに関連して有名であるのは,東西南北の四方をつかさどり,その名に色を冠した「四神」と呼ばれる聖獣の存在です。「(せい)(りゅう)」(東)・「朱雀(すざく)」(南)・「白虎(びゃくこ)」(西)・「(げん)()」(北)といえば,耳にしたことがあるかもしれません。日本では(たか)(まつ)(づか)古墳の石室内部に描かれた壁画が有名ですし,幕末の会津藩ではこの四神の名称をあたえられた部隊が編成されました(とくに白虎隊が知られています)。また,平城京や平安京において宮城の南門を「朱雀門」としたのは,五行説に基づいた(とう)(ちょう)(あん)城などにならっての命名ともいわれます。

写真1    写真1:紫禁城の北門である神武門(手前の自動車との比較で,門の大きさが分かります)

 同じように,長安の宮城の北門は「玄武門」と呼ばれました。玄武は亀と蛇とが合体したような外見をしており,「玄」は「くろ」色を意味します。そういえば,遣隋使・遣唐使に同行して唐の長安にも滞在した(たか)(むこの)(くろ)(まろ)(黒麻呂)という人がいました。
 ただこの玄武門ですが,(しん)朝(1636~1912)において,1644年以降の宮城であった()(きん)(じょう)(現・故宮博物院)の北門は,ある時期に「神武門」と改称されました。第四代皇帝・聖祖(こう)()(てい)(げん)(よう)(在位1661~1722)の時代のことです。

 これは中国の「避諱(ひき)」と呼ばれる,貴人の本名を避ける慣習に基づきます。古来中国では,自分の父祖やその王朝の歴代皇帝の本名をはばかり,それらの漢字の使用を避けるという慣習がありました。
 そのため,北方の守護神の名称に由来する玄武門ですら,康熙帝玄燁の名を避けて,神武門とあらためなくてはならなかったのです。いかに皇帝という存在が偉大であると考えられていたのかがうかがえます。その偉大なる皇帝を象徴する存在が,「(こう)(りゅう)」でした。

写真2        写真2:階と階との間に彫刻された,皇帝を象徴する五本爪の龍

 はなしを五行説に戻します。東の青龍(木)・南の朱雀(火)・西の白虎(金)・北の玄武(水)とくれば,残った方角はひとつ,「中央」(土)ということになります。そしてこの四神に囲まれた中央に配置されるのが黄龍(異説あり)で,つまりは皇帝が天下の中心に存在することをあらわしています。

写真3    写真3:紫禁城の太和殿の屋根に並ぶ「走獣」たち(先頭は鳳凰に乗った仙人,2番目が龍)

 (みん)(しん)時代の皇帝の住まいであり,天下の中心であった紫禁城。その屋根瓦は皇帝(黄龍)を象徴する黄色で塗られ,広大な空間のあちらこちらに,ある時はあからさまに,またある時にはさりげなく,大小さまざまな龍が隠れています。もし訪れることがありましたら,ぜひ探してみてください。

 

 

真夏のトルコ発掘記2017:私と犬


紺谷 亮一 教授

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 今年も8月初旬から9月初旬にかけてトルコ共和国カイセリ県キュルテペ遺跡に発掘調査に行ってきた。8月は非常に暑く、時には体力の限界を感じる時もあった。私自身、日本ではそれほどアルコールを嗜まないが、現地ではあまりの暑さにトルコ産のビールを何本も飲むことになった。気候が日本よりも乾燥しているからであろうか、何本飲んでも酔わない自分に驚きを隠せなかった。今年の発掘調査の目標はキュルテペ遺跡の起源を探るために地表下5,5mまで掘り下げた。すると地下水が染み出し、来年以降は発掘区を拡張しなければ物理的にも安全性の面からも問題がありそうだ。地表下5mにもなると日光も当たらず、なおかつ地下水の水蒸気によって蒸し風呂のような状態になり、調査活動はかなり過酷なものとなる。それでも諦めずに掘り進んでいくのは「この遺跡の起源を探ることがオリエント考古学に寄与する」という、絶対的な使命感と自信からくるものである。今年は約5,000年に年代づけられる層で大きな発見があったのであるが、これについては場所を変えて発表したい。


 非常に寂しかったのは発掘調査隊宿舎で飼っていたタルチュンという犬が死んでしまったことだ。この犬は我々から「発掘犬」と呼ばれていた。午前中の涼しい時間に我々にくっついて発掘現場までやってくるのだが、なぜかこの犬がそばにいると重要な発見が起こるのである。今にして思えば、もっとおやつを与えたり、一緒に遊んであげればよかったと思う。あるときは部屋に入り込んで、土器や石器を実測する私の姿を神妙な顔つきで眺めていたのがとても可愛らしかった。

 一方、私が日本で飼っているサンタという柴犬は発掘期間中、私と離れて預けられている。帰国すると「なぜ僕を置いてけぼりにしたの?」という顔つきで一週間ほどは懐かない。人格ならぬ犬格としては「大いに拗ねる」という感じである。いずれにしろ私は日本でもトルコでも犬に癒されながら生きている。

果たして古代の人は犬とどのような関係を結んでいたのだろうか。現代のように室内で犬を飼って溺愛するようなことはなかったかもしれない。一つ興味深い事例をお伝えしよう。古代オリエント世界では建築材に日干しレンガを多用していた。そして日干しレンガには時々、犬の足跡がついている時がある。これはレンガを乾かす際、犬がレンガの上を自由気ままに歩いた証拠である。その際、人間は犬に対してどのような感情を抱いたのだろうか。犬を叱る人、「また犬が悪戯をしている」と思う人々。いずれにせよ古代においても犬は人々のすぐそばにいたのである。

歴史の中の「ある三姉妹」

西尾和美教授

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  今から五百年近く前、戦国時代の安芸(あきの)(くに)(広島県)高田郡の()(りゅう)城に三姉妹がいた。父は同城主宍戸(ししど)隆家(たかいえ)、母は戦国大名毛利(もうり)元就(もとなり)の娘である。彼女たちはやがて、毛利氏にとって重要な意味をもつ婚姻をする。

 上の娘は、瀬戸内海を越えて、当時毛利氏が関係を深める伊予国(愛媛県)へ嫁いだ。対岸とはいえ、現代とは往来の便も異なる。娘も若かったのだろう。母親は自分を育ててくれた信頼厚い乳母(めのと)に懇願して、娘の婚姻に付き添わせた。

  この娘の子が、伊予(いよの)(くに)守護(しゅご)河野(こうの)氏の最後の当主(みち)(なお)である。先代の死後まだ通直は幼く、彼女は実家方の毛利一族と密接につながって大きな力を握ったが、豊臣政権の全国統一の過程で、河野氏は長年の国主の座を追われた。父宍戸隆家が娘と孫の身を案じた書状が残る。

 

 【写真1】伊予河野氏の居城:()築城(づきじょう)跡(愛媛県松山市)


 【写真2】国史跡:湯築城跡家臣団居住区

 

  その後、彼女らは親戚の小早川氏を頼り安芸の竹原に渡るが、まもなく通直は同地で死亡する。1587年、二十代の若さであった。翌春、(とむら)いの高野(こうや)登山で建てられた通直の供養塔と彼女自身の逆修(ぎゃくしゅ)塔(生前の供養塔)が、今も奥の院に並び立つ。晩年と死の事情は不詳である。

 

【写真3】高野山奥の院一の橋付近

【写真4】河野通直母子の五輪塔

 

  中の娘は、祖父元就になかなかの人物と評された。毛利氏を支える吉川(きっかわ)氏に嫁いだが、夫は豊臣政権の全国統一のために出陣した九州で病死する。その後彼女は実家に帰ったと伝わるが、晩年は妹の近くで暮らしたようで、1636年に山口で死んだ。

  末の娘は、1558年に生まれ、十代の初めに元就の孫毛利輝元に嫁ぐ。母に重ねて、毛利・宍戸両家の絆を固める婚姻であった。直後に毛利家では祖父元就、輝元母の死亡が続き、夫妻は、織田・豊臣政権の波が中国地方へ押し寄せ、やがて徳川の世へと移る時代を生きていく。実子はなく、1631年に山口で死んだ。
  姉妹たちは胸中に何を抱え、だれを思い、生涯を生きたのか。その心の(ひだ)は知り得ないが、いつの時代にも、一人ひとりの人間が生きており、忘れられてよい命は一つもない。それが歴史を通して培うべき想像力と謙虚である。わずか七十余年前の国民的記憶の風化が懸念される現在、あらためて胸に刻まれる。

G7サミットと社会学


濱西栄司 准教授

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 2017年5月26-27日に、イタリア・シチリア島のタオルミーナでG7サミットが開催されました。トランプ大統領が参加するということで報道も良くなされていました。

 「サミット」は、もともと冷戦期の「石油ショック」(1973年)後に、先進・資本主義諸国の首脳(大統領/首相、大臣)が、新興国、アラブ産油国、社会主義・共産主義諸国に対抗して、主に経済政策を調整するための場として1975年に始めたものでした。以来、毎年開催され、現在では政治や紛争、テロリズム、気候変動などさまざまなテーマについて話し合う場ともなっています。現在の参加国は仏独英米伊日加の7カ国で、「G7」(Group of 7)サミットとも呼ばれます。

 サミット開催地には、政府要人やNGO、メディアを含め、世界中、開催国中から、多様な集団・組織、個人が集まります(写真)。気候変動問題、エネルギー問題、紛争・テロ、難民、金融危機などの諸問題は基本的に国境を越えた形で発生しますので、先進諸国の首脳たちが一同に集まるサミットは、各国政府にとっても、また(首脳たちに一度に要求できる点で)NGOなどにとっても、貴重な機会なのです。

 

写真 2009年G8サミット時のローマ市中心部バルベリーニ広場の様子(筆者撮影)

 筆者は、これまでサミットをめぐる政府・NGO他の動きについて国際的な比較研究を行ってきました。各サミット時にどういう人たちが、何を主張しているのかを総合的に捉え、適切に比較検討すれば、その時々の世界・社会の全体的状況のある一面を理解することができます。たとえば日本で開催された5つのサミットをめぐって様々な活動を起こした集団・組織の変化は、図1のように整理できます。詳細は避けますが、その変化は、世界情勢の変化や日本社会の変化とも対応しているのです。

 

図1 日本開催5サミットをめぐる集団・組織の変化(濱西2016: 171)

 

 「サミット」は、政治リーダーたちの国際会議の一つですから、政治学や国際関係論の範疇に入るとおもわれがちです。しか、集団・組織の変化を、当該社会の変化と結びつけることができるのであれば、サミットもまた社会学者にとって貴重な研究対象になりえるのです。



参考文献

高瀬淳一、2000、『サミット――主要国首脳会議』芦書房.

野宮大志郎・西城戸誠編、2016、『サミット・プロテスト』新泉社.

濱西栄司、2016、『トゥレーヌ社会学と新しい社会運動理論』新泉社.