2009年
08月01日

太宰治は女性の心がわかっていた?|綾目 広治|日文エッセイ70

日本語日本文学科 リレーエッセイ
【第70回】2009年8月1日

太宰治は女性の心がわかっていた?

著者紹介
綾目 広治(あやめ ひろはる)
近代文学担当
昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。

今年が生誕100周年の年となる有名作家に、『山月記』の中島敦、『俘虜記(ふりよき)』の大岡昇平、『死霊(しれい)』の埴谷雄高、そして太宰治がいます。おそらく、この4人の作家の中でも一番よく知られ、よく読まれている作家は太宰治でしょう。彼は、1948(昭和24)年の六月に玉川上水で心中自殺をして、わずか39歳で亡くなりましたが、その長くはない作家人生の中で多くの短編小説を書きました。

角川文庫『女生徒』表紙(太宰治著、(C)角川書店)太宰治には、現在でも若者を中心に多くの読者やファンがいると思われますが、彼の人気の秘密はどこにあるのでしょうか?その理由として、彼の小説を読むと読者は自分のことが書かれているような気分になることが、まず挙げられます。たしかに彼の小説には、とくに青年の悩み、苦しみ、照れ、自嘲(じちょう)などが、実によくこなれた〈語り〉の文章によって表現されていて、読者は「そうだ、そうだ」と頷(うなず)きながら読み進めていきます。その中でも、〈女性独白体〉とか〈女語り〉と言われている、女性の語り手による一人称の小説も数多くあって、女性の読者は自分の気持が書かれていると思うようです。とくに有名なものとしては、たとえば『女生徒』という小説があります(ぜひ読んでみてください)。これは、戦前昭和の女学生の一日を当の女学生が語ったという体裁(ていさい)になっている小説で、お母さんのことや飼い犬のこと、通学途中の電車の中でのこと、また学校の先生のことなどが、「そういう時、私は涙が出そうになってしまう」というような〈女性独白体〉で書かれています。その鋭敏で且(か)つ目まぐるしいと言ってもいい感受性の動きが、この小説の読みどころですが、多くの女性読者は〈太宰治は女の心を本当によくわかっていた!〉という感想を持つようです。実際、そういうことを言っている女性作家もいます。

しかしながら、太宰治は本当に女性の心がわかっていたのでしょうか?あるいは女性の心をよく観察して、それを表現したのでしょうか?実は『女生徒』には実際の女学生の日記があって、太宰治はそれを元にして『女生徒』を書いていて、日記に書かれていることを小説にかなり取り入れてもいます。『斜陽』という小説もそうであって、元の日記があります。つまり、太宰治が自分の想像力を駆使(くし)して女性の気持を書いたのではなく、元になる原典があってそれを活用して小説を書きました。では、元の日記など無い、他の〈女性独白体〉の小説はどうでしょうか?このことについて太宰治は、愛人で小説の弟子でもあった太田静子に、「小説はね、男と女をいれかわりにして、思いをこめるのがいい。男の気持は、そのまま女の気持になる」と語っていたようです。エッセイの中でも太宰治はそういうことを述べています。自分は現実の女性の気持を書こうと思ったことはない、と。そして、「男の気持」というのは、結局は太宰自身の「自分の気持」ということだと思われます。
つまり、〈女性独白体〉の小説は、太宰治自身の気持が込められていた小説であった、ということになります。実際、それらの小説を分析してみると、主人公で語り手の女性の心の動きは、まさに太宰的です。太宰的というのは、男性が語り手の、他の太宰治の小説の場合と、実によく似た反応の仕方をしているということです。

〈太宰治は女の心を本当によくわかっていた!〉というのは、〈神話〉です。にもかかわらず、どうして多くの女性読者はそのように思ったのでしょうか?ひょっとすると、太宰治は女性的な精神の持ち主だったのでしょうか?では、女性的というのはどういうことでしょうか?あるいは、男の気持も女の気持も、一般に思われているほどには違っているものではなく、太宰治はそのことを知っていたということでしょうか?等々といろいろと疑問が出てきます。私たちは太宰治について、また女性と男性との共通性と差異性についても、通念や常識から逃れてもう一度考え直す必要があるのではないでしょうか。つまり、問題は一歩先に進んで、今度はそれらについて考察していかなければなりません。

文学作品を深く読むというのは、文学作品に纏わる〈神話〉を、周囲の証言なども考慮しつつ、作品の詳細な分析を通して〈解体〉し、考察をさらに次の段階へと進めていくような読みをしていくことです。日本語日本文学科では、そのような読みを学生たちが深めていく力をつけるための講義や演習を試みています。

画像は、角川文庫『女生徒』表紙(太宰治著、(C)角川書店)