文字をつむぎ、言葉をひもとく
―日本語日本文学科リーフレット完成のお知らせ―

 

完成した学科リーフレット(2018年度入試用)

 例年よりは遅い桜が咲く頃、今年も大学にたくさんの新入生を迎えました。そしてまた新年度の授業が開始され、日本語日本文学科の教員達も、毎日の授業準備に追われながらも、何となく活気に満ちています。そんな中、今年も新年度用の日本語日本文学科広報紙の編集作業が始まりました。
 この学科広報紙は、大学が公式に刊行している「キャンパスガイド」とは別に本学科が独自に作成しているリーフレットで、学科所属の教員と事務職員からなる「日本語日本文学科広報小委員会」が編集しています。

 このリーフレットでは、本学科が開講する授業や、在学生・卒業生などをご紹介しています。掲載した授業もほんの一部ですし、生き生きと学ぶ在学生や、社会で活躍している卒業生についても、全ての方の笑顔をご紹介できないのは本当に残念ですが、どんな学生や教員がいて、どんなことが学べるのか、本学科の雰囲気を少しでも具体的にお伝えできればと考えています。
 編集にあたっては学科広報小委員会で何度も検討を重ね、また校正作業では学科の教員達も率先して協力をしてくれ、慌ただしくも順調に作業を進めることができました。
 
 「文字をつむぎ、言葉をひもとく」―これは、このリーフレットの表紙に記されている言葉です。
 皆さんも感じていらっしゃると思いますが、文字や言葉は、私たちの心の本当の思いを伝えるためには、時として無力です。あの時伝えられなかった思い、いますぐには言葉に表せない思い、後に続く誰かに残したい思い―文字や言葉は、心を伝える道具に過ぎません。私たちの心は、文字や言葉、時間や距離、そして私たちの持つあらゆる「差異」をさえ、遙かに超えていきます。あるいは、人の心の奥深くにある思いや、その真実というものは、文字や言葉では語り尽くすことができないものなのかもしれません。
 ただ、私たちはこのことについて、謙虚に、しかし諦めない姿勢で、私たち人間の、思い、心、真実に、文字や言葉や、その表現をたよりとして近づこうとしています。その私たちの姿勢は、日本文学や日本語学や、言語文化などの日々の授業の中で、学生達に対して、時に熱く、時に少し照れながら、または心の痛みを伴いながら、教員それぞれの内的な体験と照らし合わせつつ、伝えられています。教室の片隅で、その授業のその一瞬が、そののちずっと忘れられないあなた自身の体験となり得ることを、私たち自身が自らの体験として知っています。そして私たちは、そういった体験をこそ、学生達と共有したいと願っています。
 
 ついこの前まで満開だった桜もとうに散って、気がつけば梅雨の季節になり、新しいリーフレットが完成しました。
 もし機会があれば、ぜひ、この新しいリーフレットを手にとってご覧になってみてください。

紹介在学生の撮影風景

 

 

 

 

 

 

文:日本語日本文学科広報小委員会(リーフレット担当)前谷明子

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第164回】 2017年6月1日

【著者紹介】 東城 敏毅(とうじょう としき)

古典文学(上代)担当
古代和歌、特に『万葉集』について、研究を進めています。

 

「春日なる三笠の山」と遣唐使
 ―阿倍仲麻呂「遣唐1300年」を迎えて―

 

阿倍仲麻呂「遣唐1300年」

 今年は、阿倍仲麻呂が唐に渡った養老元年(717)から1300年という、節目の年に当たります。「遣唐1300年」ということで、奈良県ではさまざまなイベントや展示が催され、また予定されています。『百人一首』にも選ばれた阿倍仲麻呂の著名な歌は、『古今和歌集』巻第9、羈旅歌の冒頭を飾っています。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも(406)
(大空を振り仰いで見ると......春日にある三笠の山にかつて昇ったあの月だなぁ。)

 阿倍仲麻呂は、遣唐押使、多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)をはじめ、長期滞在留学生の吉備真備(きびのまきび)や、留学僧玄昉(げんぼう)らとともに、総数557人という、当時として過去最大の大使節団である養老元年の遣唐使で唐に渡ります。そして、唐において教育機関である太学で学び、最難関の科挙に及第して進士となり、唐の皇帝玄宗に仕え要職を歴任、唐において重要な地位を占める人物にまで出世していきます。そのため、天平5年(733)の遣唐使の帰還に合わせ帰国を上申するも、却下され、結局、唐に渡ってから36年の後、天平勝宝5年(753)、藤原清河(ふぢはらのきよかは)を大使とする遣唐使の帰国に便乗して帰国することが許されたのです。第1船に藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船には大伴古麻呂・鑑真、第3船には再度渡唐していた吉備真備、第4船には布勢人主(ふせのひとぬし)らが乗船していました。この出航に際し、唐という異国において月を眺め、その月を、かつて現実に見た故郷の三笠の山の月と重ね合わせて故郷を偲んだ歌が、「天の原」の歌だと言われているのです。

 

「春日なる三笠の山」に込められた「思い」

 では、この「春日なる三笠の山」には、どのような仲麻呂の「思い」が込められているのでしょうか。『万葉集』には以下のように「春日なる三笠の山」が詠まれてきます。

春日なる三笠の山に月の舟出づみやびをの飲む酒坏(さかづき)に影に見えつつ (巻7・1295)
春日なる三笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく(巻10・1887)

 「春日なる三笠の山」は、平城京に住む都人にとっては、常に目にする東方を代表する景であり、心を和ませる郊外の風景を表す歌表現でもありました。したがって、仲麻呂は、これらの風景を自身の歌に詠み込んできたと解することができます。ただし、三笠の山は、標高297メートルの山であり、平城京から東方を眺めると、標高498メートルの春日山に埋没してしまい、「春日なる三笠の山に出でし月かも」という実感が伴わない可能性があります。これを実感として得るためには、三笠の山の麓から月を望む必要がありますが、実はこの三笠の山の麓は、遣唐使の航海安全祈願のための神祭を実施する場所だったのであり、それは、以下の『続日本紀』の記事からも立証できます。

遣唐使、神祇を蓋山(みかさやま)の南に祠る。  (養老元年〔717〕2月条) 
遣唐使、天神地祇を春日山の下(ふもと)に拝す。 (宝亀8年〔777〕2月条)

 この「春日山の下」は、天平勝宝8歳(756)の明記のある、正倉院所蔵の絵図「東大寺山堺四至図」(とうだいじさんがいしいしず)に「神地」と記されている場所とも一致し、のちの春日大社の地を指すとも言われています。『万葉集』にも、天平勝宝の遣唐使として派遣される藤原清河に贈る光明皇太后の以下の歌が収められています。


    春日に神を祭る日に、藤原太后(ふぢはらのおほきさき)の作らす歌一首
    即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ
大船にま梶(かぢ)しじ貫きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣る斎へ神たち(巻19・4240)
    大使藤原朝臣清河の歌一首
春日野に斎(いつ)く三諸の梅の花栄えてあり待て帰り来るまで(巻19・4241)

つまり、仲麻呂は、平城びとにとって、心を和ませる郊外の風景であった「春日」の風景を歌表現として使用しつつも、出発前、航海の安全を祈願した三笠の山の麓で見た月に、望郷の念を込めたと考えられるのです。

 さらに、平安時代末に記された東大寺の寺誌である『東大寺要録』には、「御笠山安部氏社の北」ともあり、三笠の山の麓には、もともと阿倍氏の社があったことも想起しなければならないでしょう。「春日なる三笠の山」と詠まれる背景には、この阿倍氏の氏神との関係も考慮する必要があるのです。
 このように、「春日なる三笠の山」には、仲麻呂の様々な「思い」と、様々な「歴史」が込められているのです。 

 

後世に歌い継がれる阿倍仲麻呂

 天平勝宝の遣唐使は、結局、藤原清河や阿倍仲麻呂の便乗した第一船のみが遭難し、安南に漂着、ついに仲麻呂は帰国することはできませんでした。仲麻呂は、故郷を偲びつつ、異国の地で亡くなってしまいますが、後世の日本人は、この歌に、さらに仲麻呂の帰国できなかった無念の「思い」も込めて、歌い継いできたと言えるでしょう。

 

平城宮跡から眺める「春日なる三笠の山」平城宮跡から眺める「春日なる三笠の山」

 

平城宮跡から眺める「春日なる三笠の山」荒池付近から眺める「春日なる三笠の山」

※画像はいずれも東城敏毅撮影。
 画像の無断転載を禁じます。 

ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会 第20回大会

 

今年も、ノートルダム清心女子大学日本語日本文学会の大会を開催します。
プログラムは以下の通りです。どうぞご参加下さい。

 

 

 

2017年6月18日(日)10時~15時

会場 ノートルダム中央棟630ND教室

 

 事前申し込み不要 当日は東門よりご入構ください。

 

午前の部(10時~)

 一、開会・代表挨拶

 一、学会を振り返って 綾目広治(本学文学部長)

 一、研究発表

  ・司馬遼太郎研究 ―『坂の上の雲』と雑誌「中央公論」をめぐって―

            轟原麻美(本学大学院博士後期課程二年)

 一、講演

  ・『万葉集』大和三山の歌をめぐって ―香具山は女性? 男性?―

            東城敏毅(本学准教授)

 一、総会

 

午後の部(13時15分~)

 一、講演

 ・文学を見せる ―ふくやま文学館の歩みと試み―

            小川由美(ふくやま文学館学芸員)

 一、実践報告

 ・書く力を育てるための授業実践

            末田順子(岡山市立東山中学校教諭)

 一、閉会

 一、茶話会 & 情報交換 (15時~)ジュリーホール一階ラウンジ 

    ※『清心語文』既刊分余部を無料配布します。

 一、国語教育部会 (16時~)ジュリーホール一階小会議室

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第163回】 2017年5月1日

【著者紹介】 尾崎 喜光(おざき よしみつ)

日本語学担当

現代日本語の話し言葉の多様性に関する社会言語学的研究。日本語の男女差、年齢差(加齢変化)、地域差(方言)、方言と共通語の使い分け、敬語行動、現在進行中の言語変化、韓国語との対照言語行動研究など。研究テーマも多様。

 

 ご注文は以上でよろしかっ〈た〉でしょうか?

 

 最近聞いた店員さんの言葉
 先日、岡山駅に入っているスーパーで買い物をしてレジで代金を払おうとしていたときのことです。買い物が小さなペットボトル一つだけであるのを見たレジの店員さんが「おしるしでもよろしかったですか?」と私に聞きました。「おしるし」というのはお店のシール(ビニールテープ)のことです。つまり、ペットボトル一つだけなのでレジ袋は不要ですよねと私に確認したのです。
 これを紹介したのは日本の環境問題について考えたいからでもなく、お店のサービスの在り方について考えたいからでもありません。日本語表現について考えたいからです。といってもここで考えたいのは「おしるし」ではなく、その直後の「よろしかったですか?」の方です。なぜ「よろしいですか?」ではなく「よろしかっ〈た〉ですか?」と過去形で尋ねたのかを考えてみたいのです。
 過去形にしない「おしるしでもよろしいですか?」で意味は十分通じますし、店員さんは私のその場での判断を尋ねているわけですから「よろしいですか?」の方がむしろ適切な表現だと考えられます。それなのになぜ「おしるしでもよろしかっ〈た〉ですか?」と過去形で尋ねたのでしょうか?

 

 よく話題にされる「間違った日本語」
 「よろしいですか?」を「よろしかっ〈た〉ですか?」とするこの種の表現は、コンビニエンスストアやファミリーレストランの店員さんがよく使う「間違った日本語」としてときどき話題になります。使用される頻度も比較的高いため、気になるお客さんも多いと思います。その後東京でこんな発話も耳にしました。やはり過去形です。
 ①「一万円でよろしかっ〈た〉ですか?」
 これは家族と一緒に深大寺(調布市)でそばを食べ、会計で妻が一万円札を出したときの店員さんの言葉です。
 10年近く前になりますが、愛知県岡崎市で敬語の調査をしていたとき、昼食で入った食堂で次の発話も耳にしました。いずれも店員さんから私に対するものです。
 ②「メニューの方、お下げしてもよろしかっ〈た〉ですか?」
 ③(空いた食器を見ながら)「こちら、お下げしてよろしかっ〈た〉ですか?」
 ④(530円の代金に対し会計で1,030円を出したとき)「1,030円からでよろしかっ〈た〉ですか?」

 過去形にするには理由がある?
 過去形にしたこれらの表現は単なる言い間違いでしょうか?
 言葉遣いの中には、言った本人も直後に「あっ!」と思う言い間違いも確かにあります。しかしこれらの表現は単なる言い間違いではなさそうです。では、単なる言い間違いとは異なる次元の間違った日本語表現ということでしょうか?
 言葉に関する一般向けの本の中には、間違った日本語について指摘し、正しい日本語を指南する本がたくさんあります。学生の中にはそうした本を読み、正しい日本語を使うよう心掛けたいという感想をレポートの中で書く人もいます。それはそれで大切なことであり、社会に出てからはおおいに役立つでしょう。
 しかし、一般に正しくないとされながらも現実には広く流通しているからには、何かそれなりの理由があると考えた方がよさそうです。ある表現を自分で非論理的だと思いながら使うということは普通は考えられませんから、従来とは異なる<別の論理>がその人の中にあり、それに基づいて使っていると考えるべきでしょう。

 どんな論理?
 ではどんな論理が考えられるでしょうか?
 誰もが一度は聞いたことがあると思われる、ファミリーレストランで客の注文を復唱した直後の「ご注文は以上でよろしかっ〈た〉でしょうか?」という店員さんの言葉で考えてみましょう。
 客が注文をするということは、当然ながらそれ以前に、客は心の中で何を注文するかを決断しています。「よし、きょうは鴨南蛮そばにしよう!」などと決断しているわけです。
 問題の「よろしかっ〈た〉でしょうか?」という表現は、その決断を下した時点にまで客と一緒にさかのぼり、店員が復唱した注文と照らし合わせたとき、確かにそれで間違いないか、注文するのを忘れている品はないかと客に確認しているのだと考えられそうです。
 つまり、「過去の決断との照合」という、従来なかった論理により、こうした表現が使われているのだと考えられそうです。
 ファミリーレストラン等でアルバイトをしていてこの種の表現を使うことがあるという人は、自分の意識を内省し、私の考えたこの論理に同意できるかどうか考えてみてはいかがでしょうか。もし同意できない場合は、これとは別の論理があるのかもしれません。どんな論理が自分の中に働いているのかを考えてみると、言葉の研究につながります。

 大学での勉強
 大学での勉強では、一般に正解とされているさまざまな新しい事柄を学んで覚えることもとても大切です。しかしそれと同時に、誤っているとされながらも広く流通している事柄については、「それは誤りである」と簡単に断じて思考停止するのではなく、誤りであるにもかかわらず広く流通しているのは一体なぜなのだろうか、何か合理的な<別の論理>がもしかしたらあるのではないだろうかと考えを巡らせることもまた大切です。それを研究として展開し、卒業研究としてまとめた後、さらに究めたい人には大学院も用意されています。
 上に示した他の発話例は、それぞれどんな論理によるのでしょうか。考えてみましょう。
 また、「1,030円からでよろしかったですか?」については「から」の部分もよく話題になります。「1,030円でよろしかったですか?」ではなく「1,030円〈から〉でよろしかったですか?」とするのにはどんな論理が働いていそうでしょうか。考えてみましょう。

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第162回】 2017年4月1日

【著者紹介】山根知子(やまね ともこ)

近代文学担当

宮沢賢治・坪田譲治を中心に、明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。


 「坪田譲治コレクション」 
 -坪田本家と渡邉和子理事長の導きを振り返って-

 「坪田譲治コレクション」新設コーナー

 坪田譲治(1890-1982)は、岡山市に生まれ小説家・児童文学作家となり、近代児童文学の発展に寄与する作品を生みだし、後進の育成にも力を注いだ作家です。
 本学は、岡山市の岡山駅西方面にわたる譲治ゆかりの風土に位置するという好条件もあり、日本の児童文学史を切り拓いた坪田譲治の研究拠点となることをめざして、本学創立60周年を迎えた2009年、譲治の命日7月7日に本学附属図書館に「坪田譲治コレクション」を開設しました。
 そして「坪田譲治コレクション」が7周年を迎えた2016年7月7日には、附属図書館の増築を機に、髙木孝子学長の配慮のもと、新たな場所に展示ケースが設けられた「坪田譲治コレクション」新設コーナーが開設され、展示を始めることができました。
 振り返ってみますと、15年ほど前から今に至る過程で、さまざまな導きがあったことを思い出します。当初は、譲治研究において全作品の実態や草稿の存在に関しても網羅的な確認はなされていない状況でした。
 そうした状況に対して私自身、岡山市文学賞(坪田譲治文学賞)の運営委員になったことも契機となって、遅れている譲治研究に対して初版本収集や草稿の調査を進めていました。そのようななか、まず本学日本語日本文学科所属の教員による理解と協力によって、日本語日本文学科の活動として位置づけられ、さらに本学附属図書館および大学の支援のもとで、大学全体の動きとしての「坪田譲治コレクション」開設へと至ったことは本当に幸いなことでした。

 坪田家本家と渡邉和子元学長とのつながり

 譲治の作家活動の全貌を研究的に明らかにしようとする目的から、文献収集と並行して、譲治生家(岡山市北区島田本町)の周辺一帯をフィールドワークして近隣の方々による証言を集めていた私は、今は建物もない分家である譲治生家の近くに、坪田家の本家があり、そこにもよく訪れていました。
 坪田本家では、譲治のいとこの子どもにあたる中嶋倶子さんが住んでおられ、私が訪れるといつも温かく迎えて下さり、本家の情報や譲治が訪ねてきた話を教えて下さり、譲治関係資料を見せて下さいました。そうした幾度にもわたる交流のなかで、中嶋さんの長女である則武啓子さんが本学の卒業生であり、また卒業後には当時の渡邉和子学長の秘書として4年間勤めた方であると知ったのです。そうした深い縁に続き、さらに中嶋さんの夫である中嶋康輔先生も、岡山大学教育学部の教授として、数年本学の児童学科の非常勤講師としてお越し下さっていたということで、当時の渡邉和子学長との交流があったと知ることができました。
 こうして、坪田本家とのつながりを、特に渡邉和子元学長との関係において本学との絆として見出すことができ、さらに秘書を勤めた啓子さんとの交流も深めさせていただきながら認識していったという過程がありました。
 そうした過程で、中嶋ご夫妻から、坪田家資料および譲治関連資料を本学「坪田譲治コレクション」へと寄贈したい旨のお言葉をいただき、坪田家の古写真や譲治直筆資料を寄贈いただくこととなりました。
 さらに、「坪田譲治コレクション」の新設コーナー設置への準備期間でも、屏風や額入りの譲治直筆の書を新たに寄贈して下さり、それらが新設コーナーでの展示の中心的存在となりました。
 いよいよ2016年7月7日にこの新設コーナーが開設されたとき、中嶋ご夫妻をご案内したかったのですが、ご高齢のため写真でお伝えすることとし、渡邉和子理事長と則武啓子さんとをご案内することとなりました。ここに掲げたその日の写真は、渡邉和子理事長も熱心にご覧下さった展示風景で、中嶋ご夫妻にはたいへん喜んでいただいたと伺っています。
 その中嶋康輔先生が、この4ヵ月後に逝去されたと知ったときには、本当に驚きましたが、コレクションの様子をお見せできたことには救われる思いでした。
 また、さらにその1ヶ月後に渡邉和子理事長が、1週間前のクリスマスミサのお元気そうなお姿を最後に、天に召されたのでした。

 譲治研究と授業でのコレクション活用

 このたびお二人を天にお送りする経過を通して、「坪田譲治コレクション」は、譲治を中心としながら、岡山において坪田本家と本学との深い絆による思いから成り立ったことが、ますます深く心に刻まれる思いでした。
 そのことを伝えつつ、譲治の作品世界を学生たちとともに味わいたいと思っています。これからも授業で、また研究で、学生たちとこの「坪田譲治コレクション」の空間に入るたびに、こうした記憶や思いを甦らせつつ、譲治の作品世界への理解と親しみを深めていきたいと思います。

 「坪田譲治コレクション」にて(2016年7月11日) 

 譲治直筆の屏風を前に、渡邉和子理事長と則武啓子さん(右)と 

譲治直筆貼り混ぜ屏風・色紙額を前にして

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