日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第162回】 2017年4月1日

【著者紹介】山根知子(やまね ともこ)

近代文学担当

宮沢賢治・坪田譲治を中心に、明治・大正の小説や詩および児童文学を研究しています。


 「坪田譲治コレクション」 
 -坪田本家と渡邉和子理事長の導きを振り返って-

 「坪田譲治コレクション」新設コーナー

 坪田譲治(1890-1982)は、岡山市に生まれ小説家・児童文学作家となり、近代児童文学の発展に寄与する作品を生みだし、後進の育成にも力を注いだ作家です。
 本学は、岡山市の岡山駅西方面にわたる譲治ゆかりの風土に位置するという好条件もあり、日本の児童文学史を切り拓いた坪田譲治の研究拠点となることをめざして、本学創立60周年を迎えた2009年、譲治の命日7月7日に本学附属図書館に「坪田譲治コレクション」を開設しました。
 そして「坪田譲治コレクション」が7周年を迎えた2016年7月7日には、附属図書館の増築を機に、髙木孝子学長の配慮のもと、新たな場所に展示ケースが設けられた「坪田譲治コレクション」新設コーナーが開設され、展示を始めることができました。
 振り返ってみますと、15年ほど前から今に至る過程で、さまざまな導きがあったことを思い出します。当初は、譲治研究において全作品の実態や草稿の存在に関しても網羅的な確認はなされていない状況でした。
 そうした状況に対して私自身、岡山市文学賞(坪田譲治文学賞)の運営委員になったことも契機となって、遅れている譲治研究に対して初版本収集や草稿の調査を進めていました。そのようななか、まず本学日本語日本文学科所属の教員による理解と協力によって、日本語日本文学科の活動として位置づけられ、さらに本学附属図書館および大学の支援のもとで、大学全体の動きとしての「坪田譲治コレクション」開設へと至ったことは本当に幸いなことでした。

 坪田家本家と渡邉和子元学長とのつながり

 譲治の作家活動の全貌を研究的に明らかにしようとする目的から、文献収集と並行して、譲治生家(岡山市北区島田本町)の周辺一帯をフィールドワークして近隣の方々による証言を集めていた私は、今は建物もない分家である譲治生家の近くに、坪田家の本家があり、そこにもよく訪れていました。
 坪田本家では、譲治のいとこの子どもにあたる中嶋倶子さんが住んでおられ、私が訪れるといつも温かく迎えて下さり、本家の情報や譲治が訪ねてきた話を教えて下さり、譲治関係資料を見せて下さいました。そうした幾度にもわたる交流のなかで、中嶋さんの長女である則武啓子さんが本学の卒業生であり、また卒業後には当時の渡邉和子学長の秘書として4年間勤めた方であると知ったのです。そうした深い縁に続き、さらに中嶋さんの夫である中嶋康輔先生も、岡山大学教育学部の教授として、数年本学の児童学科の非常勤講師としてお越し下さっていたということで、当時の渡邉和子学長との交流があったと知ることができました。
 こうして、坪田本家とのつながりを、特に渡邉和子元学長との関係において本学との絆として見出すことができ、さらに秘書を勤めた啓子さんとの交流も深めさせていただきながら認識していったという過程がありました。
 そうした過程で、中嶋ご夫妻から、坪田家資料および譲治関連資料を本学「坪田譲治コレクション」へと寄贈したい旨のお言葉をいただき、坪田家の古写真や譲治直筆資料を寄贈いただくこととなりました。
 さらに、「坪田譲治コレクション」の新設コーナー設置への準備期間でも、屏風や額入りの譲治直筆の書を新たに寄贈して下さり、それらが新設コーナーでの展示の中心的存在となりました。
 いよいよ2016年7月7日にこの新設コーナーが開設されたとき、中嶋ご夫妻をご案内したかったのですが、ご高齢のため写真でお伝えすることとし、渡邉和子理事長と則武啓子さんとをご案内することとなりました。ここに掲げたその日の写真は、渡邉和子理事長も熱心にご覧下さった展示風景で、中嶋ご夫妻にはたいへん喜んでいただいたと伺っています。
 その中嶋康輔先生が、この4ヵ月後に逝去されたと知ったときには、本当に驚きましたが、コレクションの様子をお見せできたことには救われる思いでした。
 また、さらにその1ヶ月後に渡邉和子理事長が、1週間前のクリスマスミサのお元気そうなお姿を最後に、天に召されたのでした。

 譲治研究と授業でのコレクション活用

 このたびお二人を天にお送りする経過を通して、「坪田譲治コレクション」は、譲治を中心としながら、岡山において坪田本家と本学との深い絆による思いから成り立ったことが、ますます深く心に刻まれる思いでした。
 そのことを伝えつつ、譲治の作品世界を学生たちとともに味わいたいと思っています。これからも授業で、また研究で、学生たちとこの「坪田譲治コレクション」の空間に入るたびに、こうした記憶や思いを甦らせつつ、譲治の作品世界への理解と親しみを深めていきたいと思います。

 「坪田譲治コレクション」にて(2016年7月11日) 

 譲治直筆の屏風を前に、渡邉和子理事長と則武啓子さん(右)と 

譲治直筆貼り混ぜ屏風・色紙額を前にして

   画像の無断転載を禁じます。

  狐はゆりかごの中で嗤う

                      則武 はるな 

 

 とある昔の話。徳川が日の本を治めていた頃のこと。下総国に井岡屋という米問屋があった。初めは小さな店だったが、だんだんと繁盛し、立派な大店になった。井岡屋の初代大旦那の世茂吉は、店の繁盛祈願のために、井岡屋の近くに昔からあった小さな祠に手を合わせに行っていた。その祠には稲美様と呼ばれる稲の神が祀られていた。稲美様は狐の姿をしていて、人の前に姿を現した年は豊作になると言われていた。世茂吉は稲美様に、稲がよく実り、米がよく売れるようにと祈った。そのかわり、毎日祠の前に握り飯と油揚げを供えると約束した。滝のような雨が降る日も、冷たい風が吹く日も休まず手を合わせ、供え物をし続けたおかげか、井岡屋は大繁盛し、裕福になった。仕事が増えるにつれ、丁稚や手代も増え、世茂吉は一心不乱に働いた。あまりの忙しさに、稲美様への毎日の供え物も忘れてしまうほどだった。初代大旦那の世茂吉は、その生涯を井岡屋に捧げ、七十八でこの世を去った。

 井岡屋を継いだ世茂吉の長男・左之次郎は、父の葬式が終わってすぐ、店を大きく建て替えた。建て替えの際、米蔵を増やすために周りの土地を買って新地にすることにした。新地にする土地には、父・世茂吉が繁盛祈願をしていた稲美様の祠がある場所も入っていた。しかし左之次郎は、古い祠でもう誰も参ってもいないからお狐さんもとうの昔に立ち去ってしまっただろうと、ろくに御祓いもせずに取り壊してしまった。いちいち神官を呼んで御祓いをさせるのが面倒だったというのが左之次郎の本音であった。しかし、稲美様の祠を取り壊して再び商売を始めてひと月が経った頃、井岡屋に異変が起こり始めた。 

 初めに怪異に気が付いたのは、水汲みをしていた丁稚だった。夜中、翌朝使うための水を汲みに井戸へ向かったところ、井戸の上で何やらちかちか光るものが目についた。青い光で、ふわふわと宙を漂っていた。よく目を凝らして見ると、それは蒼い火の玉で、闇夜を舞う狐火であった。丁稚は恐ろしくなり、番頭にそのことを話したが、番頭は寝ぼけていたのだろうと、その時は軽くあしらった。しかし、日が経つにつれ井岡屋を襲う異変はひどくなった。井岡屋の屋敷の中で狐火を見たという者が増え、屋敷が獣臭いという者まで出るようになった。そのうち店で働く者たち、それも女ばかりが次々と病に倒れ、店が上手く回らなくなった。幾日かして治る者もいれば、そのまま調子が良くならないで仕事を辞めていく者もいた。女だけがかかる流行り病ではないかと疑われたが、井岡屋以外のところでは病が流行っている様子はなく、何の変わりもなかった。働く者が減っていく中でも、不思議と病にかからない男たちは倒れた女たちのぶんまで必死に働いた。そのおかげで井岡屋は何とか成り立っていたが、ある日、左之次郎の妻の鹿江が急にひきつけを起こして倒れた。今まで女の手代たちが病に苦しめられてきたのを見ていた左之次郎はすぐに町の薬師を呼びつけ、鹿江を診てもらった。しかし、どの薬師に診せても病のもとは分からず、高い薬を飲ませても良くはならなかった。そうしているうちに鹿江の病状は悪くなり、遂に正気を失ってしまった。左之次郎には娘が二人と息子が一人いた。息子の世次郎には何事もなかったが、娘二人は母に続くようにして気が狂ってしまい、床に臥せった。

 家族三人が倒れてようやく、左之次郎は異変の原因が米蔵を建てたときに取り壊した祠のせいだと確信した。左之次郎は昔から近所に住んでいた老人のもとを訪れ、祠に祀られていた狐神・稲美様について詳しいことを聞かせてもらった。狐神というものは、きちんと祀れば商売繁盛や家内安全を成就させてくれるが、粗末に扱えば恐ろしい祟り神になってしまう。また女に憑くことが多く、女ばかりが体調を崩したのは間違いなく稲美様の仕業だと老人は言った。左之次郎の妻や娘たちは稲美様の祟りをその身に直に受け、狐憑きになってしまったのだ。祟り神となった狐は腹に宿った子を喰うこともあるという。左之次郎は己が犯した罪の大きさに身を震わせた。すぐに番頭や手代と寄り合って、この怪異を止める策をいろいろと講じた。だが、祠を壊してしまった後ではどうすることもできなかった。

 そうして、左之次郎一家は狐憑きの一家と噂されるようになり、井岡屋も少しずつ傾いていった。

 

 一方、上総国の小さな町に、織物の仕立てや修繕を生業とする嶋田屋という織物屋があった。さほど大きくはないが、丁寧な仕事が評判であった。嶋田屋にはお夏という一人娘がいた。家の仕事をよく手伝い、客に対する愛想も良く、町一番の器量良しと言われていた。働き者で気立ての良いお夏を嫁に欲しがる男は数多いた。しかし、お夏はどの男の求婚にも首を縦に振らなかった。お夏には、幼い頃から夫婦になる約束をした男がいた。名を伊三郎といい、桶屋の一人息子だった。決して裕福ではなかったが優しく気の良い男であった。お夏と伊三郎はとても仲が良く、お互いがお互い以外の人と結ばれることなど考えられなかった。両親たちも二人が結ばれることを望んでいた。

「伊三郎さん。私、誰よりもあなたのことを想っているわ」

「俺もだよ、お夏。必ず夫婦になろう」

 二人はそう言い合って、幸せな日々を送っていた。

 しかし、ある日お夏のもとにひとつの縁談話が舞い込んできた。お夏は両親に詳しい話を聞く前から首を横に振った。

「ととさん、かかさん。お二人も知っているでしょう。私、伊三郎さん以外の方と一緒になるつもりはありません」

 そういって固く断った。しかし、父と母は難しい顔をした。

 縁談の相手は、下総国にある米問屋の井岡屋の世次郎だった。お夏の父と世次郎の父は遠い親戚で、お夏も幾度か世次郎と顔を合わせたことがあった。世次郎は端正な顔立ちだが、高飛車で横柄な質の男だった。お夏は態度の大きい世次郎が苦手だった。

「ととさんもかかさんも、伊三郎さんと夫婦になることを喜んでくれたじゃありませんか。なぜ断ってくれないの」

 お夏がそう尋ねると、父は険しい顔をしながら口を開いた。

 父が営む嶋田屋は、父の代で始めた店だった。店を始める際、足りなかった資金を親戚である井岡屋の左之次郎から借りたらしい。その時、店を構える土地の見定めや御役所への届け出についても随分力を貸してもらったという。

「左之次郎殿から借りた金はすでに全てお返ししたが......そのほかにもいろいろとしてもらった恩があってな」

 その恩返しに、お夏を世次郎に嫁がせろというのだ。この縁談を断れば、父が立場をなくすことは考えなくとも分かった。自分たちを脅すような左之次郎のやり口に、お夏は憤った。

「そんな卑怯なやり方しかできないような家には、嫁ぎたくありません」

 そう叫び、両親が止めるのも聞かずに家を飛び出した。

 逃げるように走り出たお夏は、真っ先に伊三郎のもとへ行った。お夏は伊三郎に縁談の事を話した。

「私、あなた以外の人の妻になるなんていや。でも、ととさんやかかさんが嶋田屋を取り上げられるのも耐えられない......」

 袖を濡らすお夏を、伊三郎は優しく抱き締めた。

「お夏、泣くんじゃない。俺が左之次郎様と世次郎様のところへ行って、縁談を取り下げてもらうように話してくる。お前は俺の嫁だ。誰にもやりゃあしない」

 伊三郎はお夏の両親と話をつけ、旅支度をすると早速井岡屋のある下総へ向かうことになった。出立の朝、お夏は伊三郎を見送りに出た。

「伊三郎さん、どうか無事に帰ってきて」

「なに、話をしてくるだけさ。心配しなくとも、話がついたら飛んで帰ってくる」

 お夏の心配を軽く笑い飛ばすと、伊三郎は下総へ向けて旅立った。下総と上総は隣地なので、行って帰ってくるまでに日はかからないはずだった。お夏は伊三郎が帰ってくるのを、まだかまだかと首を長くして待った。しかし、幾日経っても伊三郎は帰ってこなかった。

 伊三郎が出立してから十数日経ったある日、お夏のもとに伊三郎の友人の飛脚が転がり込んできた。下総と上総の境の辺りで、伊三郎の骸が見つかった。骸の背中には刀傷があり、どうやら辻斬りにあったらしいと、飛脚は真っ青な顔で告げた。お夏は、その場に立ち尽くし、一寸も動けなかった。伊三郎が死んだ。殺された。あまりに酷な報せに、泣くこともできなかった。

 母に介抱されながら、お夏は全てを悟った。伊三郎は辻斬りなどにあったのではない。左之次郎と世次郎に殺されたのだと。嫁を寄越さなければ店を潰すと脅してくるような親子だ。自分たちの邪魔になるものなら容赦なく始末しかねない。

「どうして......帰ってくるって、約束したじゃない。飛んで、帰ってくるって......!」

 伊三郎の死に、お夏は生きる気力を失ってしまった。何をしても何も感じなかった。何を食べても味がしなかった。伊三郎のいない世に生きていても、死んでいるのと同じだった。

 生きる骸となってしまったお夏は、入水や毒で自決することも考えた。しかし、それは出来なかった。世次郎と結ばれたくないために自決したと知れれば、父と母は死ぬより酷な目に遭うかもしれない。左之次郎は御役所の上役と繋がりがあるため、嶋田屋をお取り潰しにすることなど容易い。娘を失ったうえ、嶋田屋まで取り上げられたら、両親には何も残らない。伊三郎がいない今、お夏に出来ることは両親が今まで通りに暮らしていけるように、井岡屋に嫁ぐことだけだった。

 お夏は、白無垢を着て化粧をして、井岡屋が用意した輿に乗って嫁いでいった。家を出る前、目を腫らす両親に言った。

「この白無垢は、死装束です。この化粧は、死化粧です。ととさん、かかさん、お夏は死んだものと思ってください」

 それだけを告げ、お夏は輿に乗った。両親と別れる時さえ涙を見せなかったお夏は、井岡屋に向かう輿の中で、一人ひっそりと泣いた。

 

 こうして、お夏は井岡屋に嫁いだ。井岡屋に着くと、左之次郎が満面の笑みで出迎えた。世次郎もお夏が嫁いできたことをそれなりに喜んでいるようだった。しかしお夏にとっては二人とも伊三郎の仇でしかない。どんなに優遇されようと、地獄に来たことには変わりなかった。左之次郎と世次郎の曇り一つない笑みを見て、お夏は死んだ気で生きて行くことを決心した。両親のため、嶋田屋のために、全てを外面では受け入れ、伊三郎のもとへ行けるその日を待とうと。

 嫁いでから数日後、お夏は井岡屋の異様な雰囲気に気が付いた。お夏は、嫁いでから一度も世次郎の母の鹿江に会っていなかった。病で床に臥せっているとは聞いていたが、婚姻の儀の時さえ姿を見せなかった。鹿江だけでなく、世次郎の妹二人も部屋に籠ったまま出てこない。井岡屋の手代たちもどこか気のない顔をしており、お夏の身の回りの世話をする女中も常に顔が白かった。誰もが人形のような顔をしていた。まるで皆が何かに取り憑かれたようだった。

 ある日、お夏が鹿江の薬を買いに出て屋敷に帰ると、庭に見慣れない女が立っているのを見つけた。一緒に出掛けていた女中に聞くと、世次郎の妹の一人だと言った。たまに体の調子が良い時に庭に出て散歩をするのだという。庭の真ん中に立つ義妹を見て、お夏は久しく感じていなかった恐れに身を震わせた。妹は着流しではあったがきちんと身なりを整え、髪も綺麗に纏めていた。ふと見ただけなら、病弱な美しい女だった。しかし、ぼんやりと空を見つめる二つの眼がどことなく異様であった。見つめているようで、見つめていない。虚ろな眼だった。口は筋が切れたように細く開いたままで、そこから魂が抜けているのではないかと思われる出で立ちだった。

 お夏が目を逸らせずに見ていると、妹は急にくるりと振り向いた。

「あ......」

 思わずお夏が声をもらすと、妹は暫くじっと見つめてきた。そうして、にたりと笑った。

「おんや。兄様のお嫁さんかあ。こりゃ酔狂な、酔狂な」

 琴の弦を引っ掻いたような声で妹は言った。お夏は妹の尋常でない様に唇を真一文字に結び、何も言えなかった。

「義姉様、知ってるかい。兄様にはねえ、前にお嫁がいたんだよお」

 妹は楽しそうに、歌うように言った。お夏の背後で女中が悲鳴をあげるようにして妹を諌めた。しかし妹は構わず続けた。

「けどねぇ、腹にできたやや子と一緒に死んじまった。狐が腹の子を喰ったって言って腹を掻っ捌いて死になさった。狐が憑いたんだよ、狐が。それからだぁれも嫁に来なくなったんだ。でも義姉様が来てくれた。義姉様、優しいね、優しいねぇ」

 そう言ってケタケタと笑った。お夏はその場に立ち尽くした。首を振って狂ったように笑う妹を見つめる事しかできなかった。「狐が腹の子喰った、喰ったった」と歌う妹は、女中に連れていかれた。

 その日、お夏は自分が仕方なく迎えられた嫁なのだと初めて気が付いた。しかし、人形のように心を殺したお夏には、自分が妥協の末の嫁であることさえもどうでもよかった。ただ、狐の話だけが妙に頭の隅に残った。

 そうこうして過ごすうちに、お夏は懐妊した。その身に世次郎の子を宿した。子が出来たと知って左之次郎も世次郎も手を打って喜んだ。手代たちもその時ばかりは笑みを見せて祝った。鹿江や義妹たちは懐妊の報せをやっても顔を見せなかったが、お夏にとってそんなことはどうでもよかった。世次郎の子を宿してしまった。伊三郎以外の男の子どもを孕んでしまった。愛しい人を無残な姿で道端に転がした男の子どもが、今、己の腹の中で生まれる時を待っている。身の毛のよだつことだった。

「いやよ......あの男の子どもを産み落とすなんて。鬼の子......この子は鬼の子よ!」

 それまで何があっても拒まずただただ受け入れてきたお夏は、己の血を分けたはずの子どもだけ、受け入れられなかった。腹に宿ったと気付いて始めて、そのおぞましさを身に感じた。

「伊三郎さん、どうしてあなたの子じゃないの......。私は、あなたとがよかったのに。あなたが、よかったのに......」

 膨らんだ腹を抱え、お夏は呻いた。腹の中の子が憎い。愛しい人は斬り殺されたのに、この悪鬼は人の血を啜り、日に日に大きく肥えていく。そうしてのうのうと生まれてこようとしている。身も震えるような事実に、お夏は耐えられなかった。

 お夏は、腹の悪鬼がこの世に出てくる前に、水子にしてしまうことにした。鹿江の病に効く薬を買いに行くふりをして、子を流す毒を手に入れた。そしてある日の夜。誰もが寝静まった頃を見計らって、お夏は屋敷の庭に出た。子流しの毒を、大切な宝のように握り締めて。闇のような空に、蒼い月がぽっかり浮かんでいた。お夏は血が流れた時のために、井戸の近くで毒を含もうと決めていた。井戸のすぐ脇に正座をして、月を眺めた。月はどこまでも丸かった。

「伊三郎さん、ごめんなさい」

 そう呟き、口に毒を含んだ。毒はひどく苦かった。

 その時、お夏ははっと目を見開いた。

腹が、動いた。どくっと、脈打った。腹の中の子が、腹を蹴った。

 お夏は口の中の毒を吐き出した。一緒に胃袋の中のものも吐いた。

 生きている。お夏は思った。この子は生きようとしている。どうしようもなく、ただ、生まれたがっている。憎しみと呪いの悪鬼としてではなく、ただの人の子として。私の子として。

「ああ――......」

 命を与えてくれるはずの母に、命を奪われそうになっていようとも。生きたいと、叫んでいる。

「あぁああ――っ」

 お夏は泣き崩れた。腹の中にいるのは悪鬼などではなく、間違いなく己の子だった。そして、愛しい人を奪った世次郎の子であった。この世で最も愛しく、この世で最もおぞましかった。

 お夏は地に伏して泣き喚いた。すると、どこからか高い声が聞こえた。獣の鳴き声のように聞こえた。お夏は額に土をつけたまま顔をゆっくり上げた。月の光を受けて、何かが座っていた。よくよく見ると、それは赤い眼の白狐だった。静かに座り、お夏を見据えていた。血のように真っ赤な眼に見つめられ、お夏は地に這ったまま動けなかった。

「娘よ。お前の苦しみ、よく分かるぞ」

 白狐は赤い舌を覗かせて言った。お夏は声を出せなかった。ただ座っているだけの狐に恐れをなした。

「為すすべなく奪われること。これほど酷なことはあるまいて」

 ひたひたと、足音もなく白狐が歩み寄ってくる。お夏の額に汗の玉が噴き出した。

「願いを叶えてやったというに、嗚呼、人の子は愚かなものよ」

 白狐は嘆きの声をもらしながら、その口の端を吊り上げた。口の端に何かがぶら下がっているのが見えた。

「お前も苦しかろう。辛かろう。鬼の子を孕んで。その悪鬼、儂が祓ってやろう」

「や......めて......」

 お夏は声を絞り出した。両腕で腹を抱きすくめた。

「この子は、私の......生きようと......」

「懲りずに穢れた種を撒きおって。案ずるな、娘よ。喰らってやろう。恐れることはない」

 歪んだ白狐の口から赤い汁が零れた。その端に紐のようなものが垂れていた。

「やめて......!」

「もう苦しむこともない」

 ぼたりと土の上に落ちる。

「よこせ」

 臍の緒だった。

「やめてええぇえ!」

 血に塗れた口が大きく開かれた。

「狐が腹の子喰った、喰ったった」

 お夏は気を失ってしまった。最後に聞こえたのは、いつか聞いた歌声だった。

 

 お夏が目を覚ますと、そこはいつもの寝床だった。左之次郎と世次郎と女中とが、お夏の顔を覗きこんでいた。お夏が目を覚ましたことに、皆大層喜んだ。女中に話を聞くと、朝水を汲みに行った丁稚が井戸の前で倒れているお夏を見つけたのだという。男たちを叩き起こして急いで床に運んだらしい。世次郎に「一体何があったんだ」としつこく尋ねられたが、お夏は白狐のことを話さなかった。ただ心の隅で、鹿江や義妹たちが表へ出てこられないのも、井岡屋に嫁が来なかったのも、あの白狐のせいなのだろうと思った。

 気持ちが落ち着き部屋に一人になって初めて、お夏は恐る恐る腹を撫でてみた。すると、手のひらに僅かな動きを感じた。ぽこっぽこっと、小さな足が腹を蹴っていた。その小さな命の動きに、涙が一筋流れた。暖かく冷たい涙が、頬を滑った。嬉しかったのでも、辛かったのでもなく。ただ、涙が流れた。

「ごめんなさい......」

 一人呟くお夏は、他の誰でもなく、遠い日に旅立った愛しい人を思い出していた。優しい笑みを遺していった人を想った。そうして、腹を撫でながら、無性に握り飯と油揚げが食べたいと思った。

 

 それから暫く経って、お夏の腹が大きくなりもうすぐ子が生まれるという頃。お夏は死んだ。正気を失い、そのまま死んでしまった。それまでよく食べよく眠り、腹の子を労わって過ごしていたが、臨月に入ったすぐ後、急に気を狂わせてしまった。「腹の子が入れ替わってしまった」と喚いて暴れまわった。女中たちはお夏を薬師に診せるように世次郎に言ったが、世次郎は「薬師に診せても無駄だ」とだけ言い、のたうち回るお夏を部屋に閉じ込めてしまった。閉じ込められたお夏は、昼も夜も髪を振り乱して叫び喚いた。その声は近所の家にまで響き、獣の鳴き声のようだったという。しかしその悲鳴も長くは続かず、ある日鳴き声はぱったりと止んだ。女中たちが襖の隙間から部屋を覗くと、お夏は布団の上に力なく転がって息を引き取っていた。女中たちはお夏の死に袖を濡らした。だが、お夏の死に顔は、気を狂わせて死んだとは思われないほど穏やかだったという。その白い首には、不思議なことに、男の手で絞められたような跡があった。娘の死を知ったお夏の両親は、「きっと苦しむお夏を伊三郎が救ってくれたのだ」と言って泣いた。

 お夏を閉じ込めて女中たちに任せっきりにしていた世次郎は、お夏の死に様を見て、これでは腹の子は生きてはなかろうと嘆いた。そうしてお夏の亡骸を葬ろうとした時、信じられないことが起きた。死装束を着せられ、いよいよ棺の中に入れようと体を抱き上げたとたん、お夏の股座から何かが滑り落ちた。女中が布団の上に落ちたものを恐る恐る見ると、それは赤子だった。赤子の骸が出てきたと思った女中たちは恐怖のあまり喚き散らした。しかし、騒ぎを聞いてやってきた世次郎が抱き上げると、赤子は息を吹き返したように大きな産声をあげた。女中や手代たちは骸からひとりでに生まれた赤子を気味悪がった。しかし世次郎と左之次郎は赤子が男の子だと分かると、お夏が最後に遺した宝だと言って自分たちの手で育てることにした。

 骸から生まれた男の子は秋之助と名付けられ、大事に育てられた。秋之助は欲しいものはどんなものでも与えられ、すくすく大きくなった。好き嫌いもなく何でもよく食べた。しかしその中でも好んで食べたのは握り飯と油揚げだったという。秋之助は何不自由なく健やかに育ったが、いつもぼんやりとしていて、表情の薄い子どもだった。いつになっても世次郎と左之次郎に懐くことはなく、いつも母・お夏の墓の前に座り込んでいた。遊ぶわけでもなく、ただ墓標を眺めていた。そんな秋之助を、世次郎も左之次郎も気味悪がるようになった。

 秋之助が生まれてから九年経ったある日、世次郎は棚に閉まっておいた小さな箱がなくなっていることに気が付いた。秋之助とお夏を繋いでいた臍の緒が入った箱だった。世次郎は秋之助の仕業だと勘付いた。秋之助はお夏の墓の前にいた。その手にはやはり箱が握られていた。世次郎が怒鳴りつけると、秋之助はぱっと振り向いた。その顔を見て、世次郎は悲鳴を上げて腰を抜かした。振り向いた秋之助の口は血で真っ赤に濡れ、その端には臍の緒をぶら下げていたという。腰を抜かして恐怖に震える世次郎を見下ろして、秋之助はにんまり笑った。そしてくるりと踵を返すと山に駆けて行った。獣のように山に入っていった秋之助は、二度と井岡屋に戻ってこなかったという。

 

 その数年後、もともと傾いていた井岡屋は遂に潰れてしまった。借金で首が回らなくなった左之次郎一家は、みんな首を掻っ切って自決した。その首の切り傷は、まるで獣に喰い千切られたようだったという話である。


日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第161回】 2017年3月1日

【著者紹介】

川﨑 千加 (かわさき ちか)

図書館・情報学 司書課程担当

 

情報社会の図書館利用と情報リテラシー

 

1、情報社会の入り口
 情報社会という言葉が現実となったのを実感したのは、1995年に本格的にインターネットが普及した時でした。アメリカでは、1994年に「インフォメーション・スーパー・ハイウェイ構想」が発表されました。すべての家庭でインターネットを介した在宅ワークや自宅での学習が可能になり、時間や空間を超えて世界中がネットワークにつながることで、生活はより便利で豊かになると。 
 一方で、こうしたネット社会では、経済的理由などでそうした環境を持てない人達は、多くの社会的活動からも阻害されることになります。このようなデジタルデバイド(情報格差)の問題に対し、アメリカ図書館協会(以下、ALAとする)は、自宅にパソコンやネットワーク環境がない人に格差が生じないよう、図書館が支援することをいち早く宣言しました(注1)。図書館は人々がより文化的で健康な生活を送ることができるよう、すべての人が公平にあらゆる情報にアクセスする権利を保障することを目的としているからです。

2、「情報リテラシー」とは
 「情報リテラシー」という言葉が強調されるようになったのもこの頃からです。情報社会では、情報機器を柔軟に使いこなし、膨大な情報からより適切なものを取捨選択して、法的倫理などを理解した適切な情報を発信する力が求められるようになりました。これらの総合的な力が情報リテラシーと言えます。
 「情報リテラシー」はコンピュータを使う能力と考えられがちですが、それはリテラシーの一部分にすぎません。情報機器は今や赤ちゃんの時から接しているものです。スマートフォンは肌身離さず持ち歩くものになっている人も多いはずです。だからこそ、情報機器の操作よりも多様なメディアを介して広がる情報をどう読み解き、書く(発信する)かということこそが重要になっています。

3、情報リテラシーと図書館利用
 インターネットの普及から20年余りで、人々が扱う機器もパソコンからスマホやタブレットへと小型化し、いつでもどこでも常時ネットワークに接続されている社会が実現しています。IoT(Internet of Thngs=モノのインターネット)の浸透やAI(人工知能)の高度化も話題になっています。コンピュータにより管理、処理される情報は日常生活の中に入り込んでいるといえます。そして何か行動する時、考える時、"とりあえずネットに伺う"情報探索が当たり前の状態になった今、私たちはその情報の海の中を安全に航海できているでしょうか?
 2016年12月に複数の健康情報のまとめサイトが閉鎖され、ネットによる情報収集の危うさが話題になりました。命に関わることもある医療・健康情報にもかかわらず、医療関係者はほぼ関与しておらず、でまかせや根拠のない情報が多数掲載されていたことから批判を受け、閉鎖となりました。 そこでは実際の医療・健康情報とは異なる情報や、関連のないキーワードが盛り込まれていました。多くの人が「検索する言葉」を盛り込むことで、私たちがGoogleなどでキーワードを入れて検索すると、トップにそのサイトが表示されるようになっていました。それはそのサイトに多くの人がアクセスすることで、そこに広告を載せる企業を増やし、広告収入をあげるために行われていたことでした(注2)。
 こうしたことは氷山の一角にすぎません。それでも、多くの人はYahoo!やGoogleで検索して、最初に出てきた情報が自分の求めていた情報に最も近いものだとか、みんなが見ている情報だから信じて良いと思っているようです。何百万件とヒットした検索結果から、2ページ目や3ページ目までも確認する人はとても少ないようです。
 ネット情報だけでは、実は自分の求めている情報が上手く探せていないことも多いのです。情報をうまく探そうとするとき、検索するキーワードはとても重要になります。また、その情報がどこから発信されているのか、古い情報なのか新しい情報なのか、そして新聞や雑誌記事、図書でもその情報は確認できるのか、といったことを検討し、情報を多面的に読み取る力が求められます。その力を得ることができる場所が、多様な資料や情報源を備える図書館です。図書館の世界では「図書館を利用する力も情報リテラシーの一部」と考えています。それは、今後の情報社会を生きる上でとても重要な力と言えます。

 

注1) ALA.(1995). インフォメーション・スーパーハイウェイの公平利用について : その問題点と可能性. In 『図書館のめざすもの』. 竹内悊編.日本図書館協会, 1997.
注2) 情報の裏側 : ググるだけではカモられる. (2016, 12. 10).週刊東洋経済, (6699), 34-35.

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第160回】 2017年2月1日

【著者紹介】

藤川 玲満 (ふじかわ れまん)

近世文学担当

近世中後期の文学と出版を研究しています。

                         
 図会のなかの故事

 私のこれまでのエッセイでたびたび取り上げてきました、秋里籬島による名所図会(1)は、寺社や山川を項目に掲げ、これにまつわる古今の文献の記述を挙げながら解説を施しています。そのなかで、多種の書物から蒐集した記述から解説を構築していく手法には、作者の工夫が凝らされており(2)、また、独自に加えられる俳諧や狂歌などは、文学性が豊かで味わい深いものです。今回は、そうした図会の表現のうち、故事を用いた一例に着目してみたいと思います。
 『和泉名所図会』(3)(寛政8年(1796)刊)では、和泉国の紅葉の名所、牛滝山を次のようにあらわしています。

 此山の丹楓(もみぢ)は高雄通天にも劣らずして、谷の低も峯の高きも紅ならざるはなし。其くれなゐの中より三つの瀧だんだんにおちて牛石さしはさみて水の音つよく、霜に染たる紅葉ば此牛の背に散かさなりて錦の褥(しとね)を着(きせ)たるが如し。

このように、高雄山や通天橋(東福寺)にも劣らぬ紅葉の壮観を述べ、その紅葉が牛石(山上にある牛の形をした石)に散りかかるありさまを、「牛に錦の褥を着せたよう」としています。錦は紅葉をたとえていう語です。また、錦の褥とは、錦の布でふちどった美しい立派な敷物で、宮中などで用いられたものです。そして、この描写に続けて古歌と発句を並べ、末尾に、

   牛滝のもみぢを見て狂哥をよめる
 紅葉見て耳は洗はず酒て去(い)ぬわれは巣父(さうふ)ぞ牛滝の本(もと)

という自詠の狂歌を添えています。ここに詠み込まれているのが、「巣父」の故事です。この話は、堯帝(古代中国の帝王)が、賢人と評判であった許由(きょゆう)に帝位を譲ろうとして告げたところ、清廉の士であった許由はこれを聞かされたことを厭って頴川(えいせん。川の名)で耳を洗い流し、また、その場に牛を連れて来ていた巣父(そうふ)は、許由がその耳を洗った川水を牛に飲ませることを厭ってさけた、というものです(4)。籬島の狂歌は、紅葉の散りかかる牛石の景観を、牛、錦の褥―帝位、滝―川、というように繋げ、紅葉狩の酒興と巣父の故事を重ねているのです(5)。

 ところで、秋里籬島はのちに、この許由と巣父の故事に別の図会作品のなかでも触れることとなっています。『保元平治闘図会』(6)(享和元年(1801)刊)の一場面です。この作品は、軍記物語を図会形式にして保元の乱と平治の乱を描いたもので、許由と巣父の故事が出てくるのは、『平治物語』を原拠とする次の場面です。
 保元の乱後、藤原信頼(右衛門督)は、権勢を誇る信西(藤原通憲)に不満を持ち、源義朝と結んで挙兵、信西を自害に追い込みました。その後、公卿の藤原光頼(左衛門督)が参内してみると、御所では、信頼が政権を握って帝のごとく振る舞う有様でした。光頼は、信頼方に付いていた舎弟の惟方(検非違使別当)を呼びつけ、厳しく諫めました(画像)。これに続き、次のようにあります。

 我いかなる宿業によつて、かかる世に生れ合、うき事をのみ見聞らん。むかしの許由にあらねども、今の内裏のありさまを聞(きか)ん輩(ともがら)は、耳をも目をも洗ふべくこそ侍れとて、上の衣の袖をしぼる斗(ばかり)歎れけり。

この光頼の嘆きに続けて、「許由典故(きょゆうがこじ)」とする一条に、前述の堯帝の譲位をめぐる故事が語られます。そして、終局で牛を連れて川を去る巣父の「例よりも(いつもより川水が)濁りて見へつるが穢たりけり。然らば我牛にものまさじ(飲ますまい)」との言を受けて「今の信頼の所行、光頼卿の目より、濁り穢れしとぞ見給ふらん。」と結び、この故事が光頼の洞察を説くところとなっています。

 『保元平治闘図会』の場合は原拠の『平治物語』のものですが、素材の活用の在り方について考えさせられます。そして、殊に牛滝山の狂歌は、故事の世界に転ずるその着想が、ひときわ鮮やかなものに思われます。


(1) 江戸時代の名所案内書。『都名所図会』(安永9年(1780)刊)にはじまり、畿内各国(大和・和泉・摂津・河内)や東海道、木曽路のものがつくられた。
(2) 拙著『秋里籬島と近世中後期の上方文学界』(勉誠出版、2014)に述べた。
(3)  引用は、国文学研究資料館蔵本による。句読点は私に施した(以下同様)。
(4) 『高士伝』(晋・皇甫謐撰)等に伝わり、日本の中世・近世作品にも取り上げられている。
(5) この籬島の詠については、拙稿「秋里籬島の狂歌―籬島社中と名所図会に関して―」(『清心語文』18)に述べた。
(6) 引用および画像は、架蔵本を用いた。

 

『保元平治闘図会』(架蔵)巻之七 「左衛門督光頼舎弟を厳しく諫て信頼に与(くみ)する事を大ひに制し給ふ」

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第159回】 2017年1月1日

【著者紹介】

原 豊二 (はら とよじ)

古典文学(中古散文)担当

源氏物語など平安時代の文学を多角的に研究しています。

 

  風葉和歌集のこと

 

 2015年、林原美術館に池田光政自筆の『風葉和歌集』(抜書き本・5点)のあることを確認することになった。池田光政は岡山藩初代藩主で政治家としてとても著名な人物である。光政のことは、これ以上説明する必要はないだろうが、『風葉和歌集』という歌集を知る人は少ないのではないだろうか。
 この歌集は鎌倉時代に編纂された和歌集であるのだが、ここに収められる和歌は、『源氏物語』などの物語の登場人物の詠歌なのである。こうしたものを「物語歌集」などと言うが、この世に実在しない人物たちの歌を集めた独特な歌集でもあるのだ。ただ、この『風葉和歌集』というのは、全20巻のうち末尾2巻は現存せず、また古本や善本に恵まれたものでもない。光政の筆のものは「抜書き」であり、現存する和歌のうちすべてが揃っているものではないが、年代のわかる『風葉和歌集』の写本としては最古のものに相当する。
 この光政筆本の発見は、本学の紀要での発表と前後して、山陽新聞とNHKで報道され、多くの方々に興味を持っていただいた。政治家という役割が前面に出ていた光政が、一方でこうした文事にも力を入れていたことは意外なことに映ったのかも知れない。やはり映像の素晴らしいところは、筆跡や料紙(用いられた紙)が鮮明であって、その流麗さ・豪華さがよく伝わることである。
 このようにして、光政筆本は世に出ることになり、後日、所蔵元の林原美術館でも展示されることになった(企画展「すみいろ」―古筆・宸翰・大名の書―〔2016.4.12-5.15〕)。加えて最新の『風葉和歌集』の注釈書(名古屋国文学研究会『風葉和歌集新注1(新注和歌文学叢書)』青簡舎、2016)にも、校合本として利用された。この本は順次刊行の予定である。
 こういうことをしていると、さらなる情報が自然と集まるもので、新たな光政筆の風葉和歌集を2点確認することができた。
 一つは備前焼ミュージアムに寄託されているもの【写真①】で、列帖装(一枚の紙の両面を使って書写したもので、冊子の形態)で、縦19.1cm、横17.1cm、58丁、所収和歌数197首。ここに抜書きされている和歌は、林原美術館所蔵の光政筆本のうち一本(書跡504-1)ならびに神宮文庫所蔵本のものと同様である。『風葉和歌集』の現存歌数は1400首あまりだから、全体の7分の1ほどが選歌されていることになる。これらの写本の共通性は、どのような歌が抜書きされたかを考える上で重要であり、ここに光政自身による選歌ということを見据えなくてはならないだろう。なお、この本は戦前までは池田家にあったようである。写真① 備前焼ミュージアム寄託本
 次に岡山県立博物館寄託の一本【写真②】である。これも明治期までは池田家にあったようである。巻子本(いわゆる巻物)で、幅23.9cm、所収和歌67首。こちらの所収和歌は、いずれの抜書本の所収歌とは対応していない独自なものである。奥書に「寛文七年未丁 初秋廿五日」とあり、これは1667年7月の書写ということになる。寛文七年頃、光政は藩内の宗教政策などをめぐって、幕府にだいぶ目をつけられていた頃だから、このような和歌集の書写をする暇がなぜあったのかなどとも思うのだが、この場合、必ずしも政治的な緊張感とは関係がなかったということなのだろう。なお、この本は2017年の元旦から1ヶ月ほど同博物館において展示される。写真② 岡山県立博物館寄託本
 本学の特殊文庫の資料にも池田光政筆と伝えられるものがいくらかあって、そのすべては正宗敦夫の収集に関わるものである。そのうち例えば『和漢朗詠集』などは、ここで紹介した『風葉和歌集』の筆跡と一致するし、表紙や料紙の豪華さなどを考えると、まさしく光政自筆と言うことができるわけである。学外の資料を根拠に、大学内の資料について解明が進むことはやはり嬉しいことである。大学と学会の往復だけで学問が深められるというのは大いなる妄想ではないだろうか、と時に思う。若き日のデカルトではないが、やはり旅に出ていかなくてはならないはずである。
 日本文学研究にはいろいろな方法があり、実際にはかなり多様な様相を呈している。そのそれぞれに尊重すべきところは多くあり、一概にどの方法が最適であるなどとは言えないであろう。けれども、私自身はできるだけ現実の社会と向き合うように心掛けている。それは現実というところにしかない<説得力>というものに、常に私が魅了され続けているからである。こうした現場から生成される着想や経験には、時に読書体験以上の意味や価値を含む場合がある。
 一つの資料が見出されると、それを保存・保管してきた人々への感謝の気持ちがまず湧き上がる。また、そのことを伝えるマスコミ関係者、それを展示する博物館などなど。多くの面々の中で、私のような古典文学研究者の役割がある。研究者だけがただ傲慢な態度であったならば、そうした学域に将来は見通せない。

 

参考文献
原豊二「池田光政と「抜書」―『風葉和歌集』『拾遺百番歌合』をめぐって―」『ノートルダム清心女子大学紀要・日本語日本文学科編』40巻1号 (2016)