日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第170回】 2017年12月1日

【著者紹介】
原 豊二(はら とよじ)
古典文学(中古散文)担当
源氏物語など平安時代の文学を多角的に研究しています。

  

致富長者譚を超えて ―竹取物語再読―

 

文政六年(1823)写『竹取物語』(著者所蔵) お金持ちになるという昔話はかなり多い。わらしべを元として、手に入れたものを交換し続け、富を得る話。動物の出てくる場合が多いが、宣告の通り行動することで富を得る話。一般に『わらしべ長者』や『花咲かじいさん』と呼ばれるお話だが、話型研究の立場からは「致富長者譚」という種類に分類される。これらの話の共通するところに、どのように富を得たかについてはあれやこれやと叙述があるのだが、お金持ちになった後、どのような生活をしたのかという叙述があまり見られないということがある。漠然と「いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ」といった感じでその話はだいたい終わる。その理由は、おそらく「致富長者譚」の本質が、金持ちになってセレブな生活を目指すということではなく、多くの庶民たちの大きな課題である「貧困からの脱出」にあるからであろう。彼ら昔話の受容者にとって、現実の裕福な生活など実感そのものがないし、夢見る具体的な姿も曖昧模糊であったに違いない。むしろ、現在の苦しい生活からの脱却こそが、彼らの当面の切実な課題であったことは十分想像できる。
 そういう点に着目すると、同じような致富長者譚が組み込まれているはずの『竹取物語』は、翁が富を得た、その後の話の方が圧倒的に長い。致富長者譚であるにもかかわらず、金持ち生活が延々と語られているという独自性が『竹取物語』にはあるのである。
 竹を採集して生計を立てていた翁であるが、ある時、その竹から黄金が見つかる。そのことで翁は「猛の者」になっていくのだが、このプロセスにはいくらかの疑問点が残る。作品の書かれた平安時代にどこまで貨幣経済が広がっていたかはよくわからないが、こうした貴金属を「資本」に置き換え、さらに「労働力」に変換して巨大な邸宅を構えるということがこんな簡単にできるのであろうか? そもそも、竹の採集に従事していた人物が、特別な知識なしに「金融」の世界に飛び込むことは本当に可能なのだろうか?
 実は翁は文字を読めたかも判然としない。というのは、この話の最後の方で出てくるかぐや姫からの手紙を、「読みて聞かせ」られているのである。自身は文字を知らなかった可能性が高い。そういう人物が、中国からの輸入品であった「金」、ようやく日本では東北地方で見つかった「金」という高度に金融的な資産を、円滑に適切に運用できたかについてはやはり疑問が残るのである。現在でも、宝くじでとんでもない大金を得た人物が、あっけなくその財産をすべて失ったり、失踪を繰り返した後、不幸な顛末に陥ったりすることはよく聞く話である。文字の読解自体はともかくとしても、相当にしっかりした人、したたかなまでに深慮遠謀を考えている人でもなければ、素人がこうした金融業に手を出すことは難しいと言わざるを得ない。普通に考えれば、黄金を手に入れた翁は、誰かずる賢いが金融知識のある人物に適当にだまされてしまいました、という程度のことで終わったかに思うのである。
 私の勘ぐりを無視するがごとく、『竹取物語』では翁のセレブ生活が描かれ続けるが、はたしてこの生活、それほど愉快なものではなかったらしい。養女であるはずのかぐや姫は、大嘘つきで欺瞞に満ちた貴公子たちに結婚を迫られ、やがては本人が実は月人であることがわかり、その帰還を阻止するために、天皇の権力で集められた武士たちがそれに挑む。が、月軍の圧倒的な威力に全く手も足も出ない。屈辱的な敗北のまま、翁は「血の涙」を流し、絶望の淵に墜ちる。
 『竹取物語』にいわゆる主題なるものがあるのか私にはわからないが、致富長者譚の行き着く先が、人間の醜さと愚かさ、それに加え権力や富のなし得る限界、さらに老いの後の孤独と絶望であるとするならば、感じのよいところで話を終わらせ、その後を曖昧にしたままの多くの昔話の方がよりスマートな作品であったとも言える。『竹取物語』は致富長者譚の挫折を描いたということにもなるが、一方で致富長者譚を超越したあり様こそがこの物語の真の魅力なのかも知れない。本来金持ちになるべき人物ではない翁が、それを達成するところでの一種の破壊力のようなものが、一見強靱に見える富や権力の限界をも結果的に暴き出したのである。
 眼前にある富や権力に惑わされず、この世界に生きる人間たちをどのように見るか? この難しい課題を解決できるのは、この翁のような、身分や階級を乗り越えた人物しかいないのかも知れない。どこまでも翁は誠実であり続けたし、娘であるかぐや姫をずっと愛し続けたのだから。  

※ 画像は、文政六年(1823)写『竹取物語』(著者所蔵)。画像の無断転載を禁じます。 

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第169回】 2017年11月1日

【著者紹介】
伊木 洋(いぎ ひろし)
国語科教育担当
国語科教育の実践理論を研究しています。

  

NIEの先駆者、大村はま先生

 

『教えるということ』表紙(大村はま、共文社) 2000年10月、横浜に日本新聞博物館がオープンして17年になる。日本新聞博物館の誕生は、大村はま先生と深い関わりがある。日本新聞博物館には、羽島知之氏が50年にわたって収集した10万点以上に及ぶ新聞コレクションが貴重な資料として保管されている。羽島知之氏は昭和20年代に目黒第八中学校で大村はま国語教室に学んだ方である。
 『教えるということ』(大村はま 1973 共文社 PP60-62)によると、戦後の大村はま国語教室は、教科書もノートも、黒板も机も椅子もない、窓ガラスの割れた校舎に、100名を越す生徒を集めた焼け跡の教室から出発した。大村はま先生は「ウワンウワン」と騒ぐ生徒をつかまえ、疎開先の荷物の中にあった新聞や雑誌をもとにして作った教材と学習のてびきを書いた紙を渡して、授業をスタートなさった。そのとき、手のつけようもないほど騒いでいた子どもたちが、しーんとなって食いつくように勉強し始めた姿に感動し、涙なさったという。大村はま国語教室における新聞を活用した学習は、こうしてやむにやまれぬ状況の中から生み出された。

 その後、大村はま先生は、学校新聞、学級新聞の制作、新聞内容のさまざまな研究、読書新聞等、新聞を活用した単元を構想し、実践なさった。西尾実編国語教科書「国語 一下」の第六単元「新聞」には、大村はま先生が執筆なさった「わたしたちの新聞」という教材が掲載されている。「わたしたちの新聞」は、「いずみ新聞(泉中学校新聞部)」第一面とこの新聞の批評会で構成されている。「いずみ新聞」を含め、すべて大村はま先生がご自身で書き下ろされたものである。この単元では、新聞と新聞の批評会を通じて、学校新聞の意義、学校新聞編集の技術、見出しの工夫をはじめ、記事、論説、ホームルームだより、声欄、文芸欄など、さまざまな文章を通じて、学校新聞が取りあげる記事の視点に気づかせ、書く力の基礎力や意見・感想が育つよう工夫されている。そこでは学習環境の問題や昼休みの意義、いじめの問題など学校生活の生きた問題を的確に取りあげ、学習生活全体を向上させる自覚を高めるため、学習者一人一人がどのように考え、どう行動すべきかを示唆し、学校生活という社会へのまなざしが育てられている。

 羽島知之氏は、「私の原点は、中学1年の時の新聞学習にある」と語っており、大村はま国語教室における「新聞」を活用した単元の学習で、新聞の種類を調べ、全国の新聞題字を集めたのがきっかけで、新聞収集を始めたという。羽島氏は、収集し、記録し、保存することを大切にし、社会人となっても、中学時代に興味をもった新聞を集め整理し続け、その結果が貴重なコレクションとなった。

『国語 一下』表紙(西尾実編、筑摩書房)

 2017年3月に告示された小学校学習指導要領、中学校学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」の実現を目指した授業改善が求められている。国語科の内容は、〔知識及び技能〕及び〔思考力、判断力、表現力等〕から構成されている。〔知識及び技能〕の内容は、「言葉の特徴や使い方に関する事項」、「情報の扱い方に関する事項」、「我が国の言語文化に関する事項」で構成され、急速に情報化が進展する社会において、情報活用能力の育成が重視され、「情報の扱い方に関する事項」が新設されている。また、読書指導の改善・充実の中では、新聞を読むことへの言及がなされ、学校図書館に新聞が配架される学校も増えている。こうした状況の中、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けて、デジタル化された情報の活用も含め、新聞を活用した学習指導の可能性は大きい。

 羽島知之氏の案内で、大村はま先生、橋本暢夫先生にお供して、日本新聞博物館内を見学させていただいたときのことを思い出す。羽島氏の説明をほんとうにうれしそうに聞いていらっしゃった大村はま先生の表情が印象に残っている。
 NIEの先駆者、大村はま先生に学び、新聞を活用した単元構想の充実が図られ、「主体的・対話的で深い学び」が実現することを期待したい。

 

参考文献
大村はま 1973『教えるということ』共文社
大村はま 1970『国語教室の実際』共文社
大村はま 1982『大村はま国語教室第1巻』筑摩書房
大村はま 1999『心のパン屋さん』筑摩書房
西尾実編 1959『国語 一下』筑摩書房
橋本暢夫 2001『大村はま「国語教室」に学ぶ-新しい創造のために-』溪水社

  

※ 画像は、上、『教えるということ』表紙(大村はま、共文社)、下、『国語 一下』表紙(西尾実編、筑摩書房)画像の無断転載を禁じます。 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第168回/学科広報委員による寄稿】 2017年10月1日

【著者紹介】
原 豊二(はら とよじ)
古典文学(中古散文)担当/学科広報委員

源氏物語など平安時代の文学を多角的に研究しています。

  

小鴨神社三十六歌仙額と書道卒業制作履修学生とのコラボ

 

小鴨神社三十六歌仙額(一部)

 2017年3月19日、小鴨神社(鳥取県倉吉市)で、修復を終えた三十六歌仙額が一般に公開された。この三十六歌仙額は天文6年(1537)に制作された国内最古級のものであり、歌人の姿絵とともに、その詠歌が流麗な書体で書かれている。もちろん経年による劣化もあり、現状では読みづらい部分も多かった。
 さて、遡ること1年前、小鴨神社の宮司の井上智史さんから連絡があり、懸案事項であった歌仙額の修復に補助金が下りたことがわかった。修復後のことを見通し、何か私もできることはないかと考えていたところ、わが日本語日本文学科の学生には「書」の精鋭たちのいることを思い出したのである。書道卒業制作を履修している学生たちである。
 早速、授業担当の佐野榮輝先生(現・本学名誉教授)に相談したところ、早速、復元模写の指導をご快諾いただいた。果たして精鋭たちが数ヶ月の時間をかけて、比較的状態のよい10枚(1枚に1首)の和歌を復元してくれるという。しかも、可能な限り、500年ほど前に書かれた状態での復元を目指すというのである。
小鴨神社三十六歌仙額(紀貫之) ところが、この後に多くの困難が待ち構えていた。まず摩滅した文字からは、最悪の場合何の情報も得られない部分があるのである。つまり、字母(仮名の元になる漢字)が判断できないのである。一字一字の喪失箇所は、佐野先生や学生の想像力に頼ることになる。また、室町時代の仮名の書というのは、日本の書道史の中でもあまり触れられない時期であり、学生たちにとっても未知の時代に当たる。この歌仙額が当初奉納されたのが、宍粟市にある山崎八幡宮であることから、近隣に荘園を持っていた冷泉家の人々が、この和歌の筆者ではないかと後に推測したが、この時点ではよくわからなかった。
 第22回書道卒業制作展は、2017年1月19日から22日までの間、岡山県生涯学習センターで開催された。この年は佐野先生の定年退職の年でもあったから、関係者にはいろいろな想いが重なっていたようだ。22回という一つの歴史から、多くの卒業生が来場したと聞いている。その中に、復元模写「小鴨神社・三十六歌仙額」もあった。倉吉から井上宮司も来られて、ようやく学生たちの想いを伝えることができた。次は3月の、小鴨神社での公開が大きな目標になった。
書道卒業制作履修学生による復元模写(紀貫之) 当日は午前中から神社内でいろいろな準備であたふたしていたが、天野山文化遺産研究所によって全面的に修復された三十六歌仙額は確かに生まれ変わっていた。もちろん、こちらは現状を重視した修復であるから、極端に見た目は変わらない。けれども、文化財を未来に伝えるというプロの仕事をよくよく承知したのであった。その本物の横に、わが清心の精鋭たちの書を貼った屏風が置かれていた。当日の私の講演でそのことを繰り返し話したこともあってか、彼女たちの作品はNHKの地方ニュースの電波に乗ることになった。本気の復元が、多くの人々の興味を惹いたのであろう。
 思い返すと、私が米子工業高等専門学校に在職の折、この三十六歌仙額を知ることになった。前任校では、工業系の学校ということもあってか、撮影した写真を大きく拡大したレプリカを制作し、神社に奉納した。なぜレプリカが必要であったかであるが、それは修復以前の歌仙額は、絵の具が剥落する危険性が高く、移動はおろか、展示さえも制限せざるを得なかったからである。修復後は、条件にもよるが、移動が可能なので、各地の博物館や美術館での展示も現実のものになると思う。よって、このレプリカは当初の役割を終えることになった。では、学生たちの制作した復元模写はどうなるのだろうか。
 実はこの復元模写も、小鴨神社にそのまま奉納されることになった。今後、この神社で保管されるものと思う。けれども、この復元模写は、これから始まる姿絵も含めた全体の復元の嚆矢となり得る、ということは述べておきたい。これは完全模写の大きな第一歩になる、と。だから、いつかより大規模で精緻な復元が完成されれば、この復元模写もその主な役割を終えるのかも知れない。
 文化財を守るとか、文化的営為を続けていくかとかいうことは、実はとんでもなく大変なことで、これに携わる人々の不断の努力の結果としてある。中世期の歌仙額が今に伝わること自体が奇跡なのかも知れない。そうであるならば、その奇跡をより確かなものにしてゆくことこそが、私たち「日文」の役割なのではないか。
 2016年10月21日に発生した鳥取県中部地震の爪痕が、半年近く経っても倉吉の街には多く見受けられた。その復興への願いと、学生・関係者への感謝の気持ちとを表して、「筆」を擱きたい。

書道卒業制作履修学生による復元模写(全10点)

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

参考文献:原豊二「山陰地域の三十六歌仙絵-手錢家所蔵資料を始発として-」『国文学研究資料館紀要 文学研究篇』第40号(2014)

  

※ 画像は上から、小鴨神社三十六歌仙額(一部)、小鴨神社三十六歌仙額(紀貫之)、書道卒業制作履修学生による復元模写(紀貫之)、書道卒業制作履修学生による復元模写(全10点)。画像の無断転載を禁じます。 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第167回】 2017年9月1日

【著者紹介】 星野 佳之(ほしの よしゆき)

 日本語学担当

日本語の意味・文法的分野を研究しています。

  

落ちてくる言葉

 

 私は国文学科というところを卒業し、今は日本語日本文学科というところで働いている。専門は語学だが、文学と語学の隣り合う幸いな環境のお陰で、恐らく人並み以上に歌や物語というものに近しく接してきたと言えるのではないだろうか。しかしうろ覚えというのもあるもので、最近確認するまで、次の歌を私は挽歌、つまり亡き人について詠んだ歌だと思い込んでいた。

玉の浦の 沖つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人を無み (万葉集・巻15・3628)

玉の浦の底の白玉を拾ったがまた元の所に戻した。見せるべき人がいないので。

(本文は、小学館『新編日本古典文学全集 萬葉集 四』による)

この歌は、次のように終わる長歌に添えられたものである(反歌という)。

...海神(わたつみ)の 手巻きの玉を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 返し遣る 使ひなければ 持てれども 験を無みと また置きつるかも(万葉集・同・3627)

海の神の腕輪の玉を土産として妻に送ろうと拾って袖に入れはしたが、届けてくれる使いがいないから、手にとったものの、しかたがないとまた元に戻したのだった。

 明らかに家に残した妻を想う歌であって、どうしてこれを挽歌だと思ったものか。それでも挽歌であるなしにかかわらず、いい歌であると思う。
 ただ、このような歌や物語の一節やを幾つか持っていたとしても、それが人生の節目にふと思い浮かんだりするものでもないらしい。先頃母を亡くしたときに立ち現れたのも、歌などではなく、少し意外な言葉であった。

『万葉集』(本学特殊文庫・正宗敦夫文庫蔵本、正二〇 I 三五)
『万葉集』(本学特殊文庫・正宗敦夫文庫蔵本、正二〇 I 三五)

 母の発病の少し後、医者の先生から「どこまで延命治療を施すか」を問われた時のことである。その時母は意識はなかったものの、自発呼吸を回復して人工呼吸器がとれていた。あれは喉に太い管がずっと入っているので、相当に苦しいのだそうだ。なので父と弟と、「再度人工呼吸器をつけることはお願いしない。それまでは治療の継続をお願いする」というところで線を引くことにした。そのことを母の父親代わりのような伯父に伝えると、「そんなところだろうな」といって次の話をしてくれた。

 母は7人きょうだいの末っ子で、早くに父親、すなわち私の祖父を亡くしている。そして彼女が高校生の時に祖母も倒れ、伯父が長兄として、当時には相当困難な処置であった胃瘻(いろう)を断念するという判断をしたという。この判断に母は、「それがいいね、兄ちゃん。母ちゃんは、ここまでの生命力だったんだね」と言ったそうだ。「だからお前の母親も、人工呼吸器までは要らないと言うんじゃないかね」と、伯父は言った。
 私たちの判断を伯父が尊重してくれることは想像もできたが、50年も前の、意図せざる母本人の言葉が、「それがいいね」と肯うような形でぽとりと落ちてくるとは、思いも寄らぬことであった。母は母に許されたまでの生命を果たして行った。彼女の言葉や行動が、私の生きている間にまたぽとりぽとりと落ちてくる折もあるだろう。

 こういうわけで少し意外なことに、このような場合に立ち現れたのは、今まで親しんできた文学の一節などではなかったのである。では文学は私にとって意味のないものとなったかというと、そうでもない。
 平生も今も、別に私は文学の中にわざわざ自分の境遇を見出そうとしないし、また文学は私にとって折よく気の利いた言葉を示してくれるような差し出がましいものでもない。挽歌だと思っていた例の万葉歌の歌い手とて、誰か他人の慰めの為に歌を詠んだのでも、まして詠めば何かが解決されると無邪気に信じていたのでもあるまい。彼が目の前や自分の中にあるものと向き合った結果が、歌と成ったまでである。そう思うので、この歌にふれて私が気になるのも、割と単純なことだ。その後彼は世を去るまでにまた妻に会えたろうか。美しいものを見た充足や辛い目に遭った時の失望が共有できる相手を再び持てたろうか。そうであってほしいなと思うだけである。それでよいのではないかと思うし、それで文学は十分に貴い。

  

※ 画像は、本学蔵『万葉集』(特殊文庫・正宗敦夫文庫、正二〇)。
  本学の特殊文庫については こちら をごらん下さい

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日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第166回】 2017年8月1日

【著者紹介】 木下 華子(きのした はなこ)

 古典文学(中世)担当

平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。

  

鬼はどこにいる?──桃太郎・温羅伝説と能「吉備津宮」から──

 

岡山ゆかりの能「吉備津宮」

 2017年5月13日(土)、観世流能楽師・林宗一郎氏によって復曲された岡山ゆかりの能「吉備津宮」が後楽園能舞台で初披露された。「吉備津宮」は、岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社の由来を語る能で、桃太郎伝説のモデルとなった吉備津彦命による温羅(うら)退治を軸とし、著名な鳴釜神事を取り込むなど、岡山の歴史と深く結びついた曲である。復曲を監修した能楽研究者・松岡心平氏の解説をもとにあらすじを記すと、以下のようになる。
      

[前場(前半)]
「吉備津宮」復曲記念公演チラシ吉備津宮の釜の鳴動という神異を確かめるために、天皇は勅使を派遣する。到着した勅使が話を聞こうとすると、庭掃きの老人が現れ、神社の縁起を語る。かつて異国から来た鬼・吉備津火車(温羅)が新山に住み、鬼ノ城を築いて瀬戸内海の海運を妨害したため、朝廷はいさせり彦を大将とする軍勢を派遣した。火車は勇猛に戦うが、ついに力尽き、自らの武勇の名が消えることを悲しんで「吉備津」の名をいさせり彦に譲る。いさせり彦は吉備津彦と名乗り、火車は吉備津宮に付属する末社となった。老人はこのように語った後、自分は岩山の神(=吉備津宮の地主神)だと明かし、姿を消す。

[間狂言](前半と後半の間に演じられる狂言、寸劇のようなもの)
勅使が吉備津宮に仕える神職に鳴釜のことを尋ねると、神職は由来を語り、阿曽女(あぞめ)を呼んで鳴釜神事を行う。釜は大きく鳴動した。

[後場(後半)]
前場で姿を消した老人(岩山の神)が、神の姿となって現れ、吉備の山河を祝福し、天下太平を寿いで神々しく舞う。
   

 いさせり彦(吉備津彦)と吉備津火車(温羅)は、桃太郎伝説における桃太郎と退治される鬼のモデルである。昔話「桃太郎」の主人公は勝者である桃太郎、つまり吉備津彦だが、「吉備津宮」の主人公は、現在も吉備津神社内に祭られる吉備国の地主神・岩山の神だ。曲内でも、敗者である火車の勇猛な戦いにスポットが当てられ、勝者・吉備津彦の名も「吉備津」火車から譲られている。火車とは、強大な力で大和朝廷に対抗したいにしえの吉備国の象徴なのだろう。「吉備津宮」とは温羅側・吉備国側から見た桃太郎伝説の様相を呈した、まさしく岡山ゆかりの能なのである。

  

鬼の住み処

 今回、「吉備津宮」の詞章(能の文章)を見て、おやと思ったことがある。「吉備津宮」では吉備津火車(温羅)の住み処は「新山(にいやま)」であり、そこに大石を高く積み上げて鬼ノ城を作ったとされる。
 新山は現在の総社市黒尾、鬼の釜がある周辺の山岳地帯であり、鬼ノ城跡・岩屋寺もほど近い。鬼ノ城周辺ならば、火車の居場所として当然だと思えるが、実はそうでもない。室町から江戸時代にかけて成立した吉備津彦・温羅伝説に関わる文献を見渡すと、鬼に当たる存在(温羅・吉備津冠者など)の住み処は、新山に固定されてはいないのだ。

  資料名 成立年代 鬼に当たる存在の住み処
1 備中吉備津宮勧進帳 1583年成立 備中国賀陽郡の高山
2 備前吉備津彦神社縁起写 1677年書写 吉備の中山の西北・阿宗郷の山
3 備中吉備津宮縁起 1700年書写 備中国賀陽郡阿宗郷
4 吉備津宮(磐山トモ) 室町~江戸 新山
5 備中国大吉備津宮略記 1800年代か 吉備国・賀陽郡の窟山(いわやま)
6 備中一品吉備津彦明神縁起 未詳 備中国賀陽郡新山
7 備中吉備津宮縁起 未詳 備中国賀陽郡の北・阿宗郷の上
8 巖夜鬼城記 未詳 備中国賀陽郡巖夜嵩(いわやのみね)
9 鬼城縁起写 未詳 備陽国巖夜嵩(いわやのみね)


 上の表の4が今回復曲された「吉備津宮」だが、鬼に当たる存在が「新山」に住むのは、他に6「備中一品吉備津彦明神縁起」くらいである。2・3・7の「阿宗」は「阿曽」とも表記される古い地名で、鬼ノ城の南、現在の総社市東阿曽・西阿曽周辺だろう。5・8・9の「窟山」「巖夜」は、鬼ノ城北側の岩屋寺周辺を指すと思われる。「阿宗」(阿曽)は温羅の妻とされる阿曽媛や鳴釜神事に奉仕する阿曽女との関連から選ばれる地名だろうし、「窟山」や「巖夜」すなわち「岩屋」は鬼の住み処としてふさわしい(巨大な石室などを備える古墳が「鬼の岩屋」と呼ばれる例は多い)。ならば、「吉備津宮」が鬼=吉備津火車(温羅)の住み処として「新山」を選び取ったのには、何か理由があるのだろうか。

関連地図(岡山県南部) 

「新山」と異国

 新山という地名は、新山寺や新山別所を意識したものと思われる。新山寺(現在は廃寺)は、現総社市黒尾の新山(標高405m)とその付近に位置した平安時代に隆盛した山上の仏教寺院だ(鬼の釜周辺をイメージしていただきたい)。平安中期、天台宗に学び宋に渡った成尋(1011~81)という高僧がいるが、成尋は入宋直前の1071年、備中の「新山(にひやま)」で百日の修行を行っている(参天台五台山記・成尋阿闍梨母集)。
 この付近は新山別所とも呼ばれていた。別所とは大寺院などから離れた一定の場所に修行者が集まって多くの草庵が結ばれた場所であり、定秀という僧が新山別所に12年住み、1076年に往生を遂げた話も残る(拾遺往生伝)。実は、新山別所は、1180年に炎上した東大寺の再興に尽力した高僧・重源(1121~1206)と深い関わりを持つ。重源作の『南無阿弥陀仏作善集』には、重源が「備中別所」に浄土堂を建て阿弥陀像を安置したと記録される。この「備中別所」は新山別所である可能性があり、「鬼の釜」は重源が寄進した湯釜という説もある。この重源、1167年に宋に渡っており、帰国後の彼の周辺には来日した宋人たちがいたようだ。東大寺復興に当たっては、重源との縁で、多くの宋人が登用されている。
 このように見てくると、新山寺・新山別所は、外国とのつながりを持つ場所だと理解できる。そもそも、「吉備津宮」において、吉備津火車(温羅)は悪行の余りに「異国」から日本に流されてきた存在だった。備中にやってきた吉備津火車(温羅)が新山に住むのは、実に自然なことだったのではないか。異国から来た鬼は異国への扉を持つ土地を住み処とした、そう考えておきたい。

鬼ノ城鬼の釜

 



 







おわりに

 いにしえの吉備国は、瀬戸内海に面した地の利を活かし、中国大陸・朝鮮半島との交易を盛んに行っていた。二度の入宋を経て、日本に臨済宗をもたらした栄西(1141~1215)は備中吉備津宮の賀陽氏の生まれだ。入宋僧である成尋や重源の事跡をも併せると、岡山という地が、古くから外に開いていたことが理解されよう。その記憶の反映こそが、鬼(温羅)の住み処「新山」だったと思うのである。

   
   

追記:
私的な感想だが、復曲公演を拝見した折の感動と興奮は、とても書き尽くせない。舞台に吉備津神社や鬼ノ城が現前するような感覚を味わい、時間が経つのも忘れて夢中になっていた。こんなにも能が面白いと感じたのは初めての体験である。昨年から今年にかけて、山陽新聞には「吉備津宮」に関するたくさんの記事が掲載されているので、興味を持たれた方はぜひともお読みいただきたく思う。

  

※「新山」に関する説明を、一部、訂正しました。(2017年8月4日)
※画像(上)は吉備津宮復曲公演のチラシ、(中)は岡山県南部の関連地図、(下左)は鬼ノ城、(下右)は鬼の釜。画像の無断転載を禁じます。