【第179回】 2018年9月1日

 【著者紹介】
 伊木 洋(いぎ ひろし)
 国語科教育担当
 国語科教育の実践理論を研究しています。

 

大村はま国語教室の実践と思想の継承-「大村はま記念国語教育の会」研究大会-


 大村はま先生が帰天なさった平成17年、「大村はま記念国語教育の会」は、大村はま先生の実践と思想をたしかに受け止め、次代へと継ぐことを願って歩み始めた。平成17年、第1回研究大会の横浜大会に始まり、大村はま先生ゆかりの地を中心に全国各地で開催されてきた。第2回以降は、山形、諏訪、目黒、鳴門、埼玉、福岡、千葉、鳥取、秋田、横浜、岩手、尼崎と続き、平成29年に開催された第14回研究大会東京大会は、大村はま先生が多くの単元を実践なさった大田区立石川台中学校が会場校となっている。研究大会では、大村はま国語教室の理念を継承すべく、実践研究発表、研究発表、講演の他、教え子の方々による証言など豊かなプログラムが用意されている。会報「はまかぜ」の記録をもとに、「大 村はま記念国語教育の会」研究大会のうち、第5回、第9回、第12回研究大会を紹介する。

  
 第5回研究大会鳴門大会は、平成21年8月19日に、大村はま先生の貴重な実践資料や学習記録が寄贈された大村はま文庫が開設されている鳴門教育大学で開催された。佐藤浩美氏の実践研究発表に続き、伊木も「学びひたり教えひたる優劣のかなたを目指して-学校図書館と学習者を結ぶ学習指導の実際-」と題して、実践研究発表を行う貴重な機会をいただいた。実践研究発表では、大村はま先生の詩の単元に学んで構想し実践した「単元 一句との出会い 心ひかれる季節のことば」をとりあげた。山元隆春氏の研究発表「学習のてびきの一源流-E・A・クロス編『文学 アンソロジーシリーズ』を中心に」、余郷裕次氏の研究発表「大村はま文庫の絵本」、苅谷夏子事務局長の講話「大村はま先生に学んだこと」、苅谷剛彦氏による講演「これから教師に期待されること-教育改革と職業としての教育-」、野地潤家氏の講演「源泉としての大村はま国語教室に学ぶ」、倉澤栄吉会長による講演「国語教育の現在と今後-大村はまがのこしたもの-」が行われた。大村はま文庫も公開され、橋本暢夫氏による解説の後、参加者は実践資料や学習記録を次々と手にとり、大村国語教室に思いをはせた。
 第9回研究大会鳥取大会は、浜本純逸氏を実行委員長として、平成25年10月12日、鳥取市遷喬小学校で開催された。午前は、河野智文氏の研究発表「経験主義国語教育の論点と大村はま先生-教育観の拡張を中心に-」、苅谷夏子事務局長の研究発表「大村はまの『てびき』の諸相」、竹田潤氏、河村英樹氏、草野十四朗氏の実践研究発表、研究協議の指導助言者は、難波博孝氏、坂口京子氏、田中宏幸氏であった。午後は、湊吉正会長による展望に始まり、シンポジウム、対談、講演が行われた。シンポジウム「自ら考え表現する学び手を育てる国語教育」の登壇者は、東和男氏、甲斐利恵子氏、遠藤瑛子氏、平松はるみ氏、小原俊氏であった。伊木はこのシンポジウムの司会を担当させていただいた。登壇者お一人お一人の豊かな識見や豊富な実践に裏打ちされたお話は広がりのあるものとなった。浜本純逸氏と中島諒人氏の対談「ことば・演劇・教育」の後、鹿内信善氏の講演「読書と作文の町づくり」が行われた。  
 第12回研究大会は、平成27年8月2日、岩手県盛岡市アイーナ・ホールで開催された。藤井知弘氏の基調講演「これから求められる国語学力」、甲斐利恵子氏による授業提案「中学校一年生『語り継ぐ人』その一 友達編」、糸坪伸宏氏、長根いずみ氏、の実践研究発表、菊池とく氏と苅谷夏子事務局長の対談、望月善次氏の司会、桑原隆氏、甲斐雄一郎氏、西川さやか氏によるシンポジウム「単元学習と国語学力」、苅谷剛彦氏による講演「グローバル化の時代と大村はま-オックスフォードから考える『学ぶ』ということ」、湊吉正会長による展望が行われた。
 甲斐利恵子氏の授業提案について、伊木は、「体験記録を書く-単元 平成12年鳥取県西部地震を風化させないために-」(注1)を実践したことを思い起こしつつ、「語り継ぐこと」の重みを改めて実感し、「はまかぜ第31号」に、次のように記した。

「『何かできごとがあったとき、他人ごとではなく、自分のこととして語り継ぐことが できる人になってほしい』という願いに基づいて構想された単元であった。東日本大震災にみまわれた東北の地に生きる学習者にとって、「他人ごとではなく、自分のこととして語り継ぐ力」は、決して震災を風化させることなく、未来に向かって歩みを進めるほんとうの生きる力になると思われた。」

 第15回研究大会(注2)は、平成30年10月20日、大村はま研究ゆかりの地、広島で開催されることになっている。大会テーマは「一人ひとりをいかす国語教室を求めて」、大村はま先生の実践と思想が確かに語り継がれ、受け継がれていく。多くの方々の参加を期待したい。

追記
 平成30年7月の豪雨は、まさに他人ごとではなく、西日本に甚大な被害を与えた。岡山でも多くの貴重な命が失われ、多くの方々が被災なさった。亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りしたい。

注1 「体験記録を書く-単元 平成12年鳥取県西部地震を風化させないために-」の詳細は、伊木 洋(2018)『中学校国語科学習指導の創造』溪水社 pp.173-201、に報告している。
注2 第15回研究大会(広島大会)に関しては、大村はま記念国語教育の会HP参照。
  
参考資料
大村はま記念国語教育の会 2015『会報 はまかぜ 第28号』
大村はま記念国語教育の会 2016『会報 はまかぜ 第31号』
伊木 洋 2018『中学校国語科学習指導の創造』溪水社

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日本語日本文学科 リレーエッセイ

 【第178回】 2018年8月1日

 【著者紹介】
 尾崎 喜光(おざき よしみつ)
 日本語学担当

 現代日本語の話し言葉の多様性に関する社会言語学的研究。日本語の男女差、年齢差(加齢変化)、地域差(方言)、方言と共通語の使い分け、敬語行動、現在進行中の言語変化、韓国語との対照言語行動研究など。研究テーマも多様。


  「言(い)わん」とは言(ゆ)わん?

 

  若者たちの発音
 本学で教員をする以前は、東京都立川市にある国立国語研究所というところで長年研究員をしていました。大学の教員になってよかったと思うことの一つに、若い人たちの会話が毎日のように観察できるということがあります。
 一昨年のことでしたが、教室である学生が別の学生に話をしているのを横で聞いていると、「そうは言わない」を「そうはゆわん」と言っていることに気づきました。文の最後を「いわん」ではなく「ゆわん」と発音していることに私は反応したのです。
 私は長野県東部の出身なので「言わん」とは言わずに「言わない」としか言わないのですが(ややこしいですね)、西日本では「言わん」と言うということは知識として知っていました。しかしその発音は「いわん」だとばっかり思っていたところ「ゆわん」と発音したためびっくりしたのです。そういえば共通語でも「言わない」を「ゆわない」と発音している人もいるようです。そこで調査してみました。
 人気テレビドラマ『相棒』の主人公・杉下右京さんの口癖に「細かいところが気になるのが僕の悪い癖」というのがありますが、私も同じです。

  『渡る世間は鬼ばかり』のセリフを分析してみると...
 話し言葉でどれくらいの割合で「ゆ」と発音されているかについて、横浜市にある「放送ライブラリー」(写真)に行き、テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』の出演者(役者)の発音を聞き取って分析してみました。このドラマを選んだのは、たくさんの登場人物(役者)がたくさんの言葉をしゃべる作品であるためデータが多数得られやすいことと、長期にわたり放送されたドラマであることからその間の時代変化や役者の個人内での変化の有無もとらえられるのではないかと見込んだためです。

 放送ライブラリー

 1990年から2008年までに放送された番組のうち6番組(約8時間分)を調査しました。ドラマには、たとえば「そうゆうことじゃないの。」のような、もはや<発話する>という意味を持たない形式化した「言う」も頻繁に出てきますが、そうしたものも分析対象としました。データ総数は618件、分析対象となる役者の総数は48人でした。
 データを分析したところ、活用語尾の発音がどうであるかにより傾向が大きく異なることがわかりました。
 「言いたくないわよー」とか「言います」のように活用語尾が「い」となるときは、直前の「言」はすべて「い」です。
 逆に、「あたしが言う」とか「この人の言うとおりですよ」のように活用語尾が「う」となるときは、直前の「言」はすべて「ゆ」です。ひらがなで書けば「いう」ですが、実際の発音は完全に「ゆう」であるということです。これも本来は「いう」という発音だったのですが、これが「ゆう」に変化したのは、活用語尾が「う」であるため直前の母音も「い」ではなく「う」でそろえる方が発音が楽だからです。しかし、本来の「い」の痕跡も残すために、ア行の「う」(つまり「うう」)ではなくヤ行の「ゆ」(つまり「ゆう」)としたわけです(「ゆ」の出だしに「い」に近い発音が瞬間的に現われます)。

  発音が「い」と「ゆ」で揺れるケース
 これに対し本来の「い」と新しい「ゆ」で揺れるのはそれ以外のときです。分析すると、次に並べた後者ほど「ゆ」で発音されやすいことがわかりました。「言い」と「言う」も含めて記します。カッコ内の数値は「ゆ」と発音された割合です。なお「言お」はたまたまこの6番組には現われませんでした。

   言い(0.0%) < 言え(4.8%) < 言っ(19.6%)< 言わ(58.8%) < 言う(100.0%)

 この序列は、おそらく、「い」から「ゆ」への変化の順序とも対応していると思われます。つまり、右側ほど早く「ゆ」に変化したということです。

  個人の中でも変化が進んでいる?
 発音がおおいに分かれる「言わ」について、役者の生年別に分析すると、1940~50年代生まれ以降の役者では「ゆ」が優勢になるようです。
 また、この「言わ」については、次のように個人の中でも「い」から「ゆ」への変化傾向が見られるようです。これはとても興味深い現象です。
  ・長山藍子(野田弥生役):50代(い3件、ゆ0件)→ 60代(い0件、ゆ2件)
  ・泉ピン子(小島五月役):50代(い4件、ゆ4件)→ 60代(い0件、ゆ3件)
  ・藤田朋子(本間長子役):30代(い3件、ゆ0件)→ 40代(い0件、ゆ3件)

  岡山市でアンケート調査してみると...
 このような調査をするきっかけとなった岡山市でもアンケート調査をしてみました。
 「言わない」の「言」をどう発音するかについて、関連する表現とあわせ、回答者の内省により調査をしました。調査の実施は2016年~17年、回答者は若年層(本学の女子大学生)87人と高年層(60~70代の男性が中心)34人です。
 結果は次のグラフのとおりでした。なお、回答者には、グラフに示した表現すべてについて、自分で使うことがあるものに◯を付けてもらいました。

 アンケート調査(岡山市)

 このうち「いわん」と「ゆわん」に注目して見てみましょう。
 じつは「いわん」も「ゆわん」も、使用すると回答した人の割合は高年層よりも若年層に多くなっています。しかし、「いわん」は若年層で1.4倍になるにとどまるのに対し、「ゆわん」は2.1倍にもなっています。「ゆ」の発音が現在岡山市でも急速に拡大していることが伺えます。もしかしたら将来は、「『言(い)わん』とは言(ゆ)わん」と言う人が増えてくるかもしれませんね。

【参考文献】
尾崎喜光(2017)「「言う」の発音に関する研究」『清心語文』第19号

 

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「文字をつむぎ、言葉をひもとく」日本語日本文学科リーフレット完成のお知らせ

 

  

 

 

 

 

 今年も、本学科の広報紙が出来上がりました。今年の学科リーフレットでは、4年次において卒業論文を書くという行為について意識的に紹介してみる、という方針で編集を行いました。それは、卒業論文を書くという行為が、本学科で学生が何を体験し、そして目指すようになるのかが具体的に表れてくる行為だと考えるからです。

 卒業論文を書くという行為について、高校生の皆さんはあまりイメージが持てないかもしれません。今回出来上がった広報紙で紹介している卒業生も、かつて本学に入学したときには、はたして自分に卒業論文が書けるだろうかという不安を感じていたに違いありません。

 この広報紙冒頭にも書かれていますが、日本語日本文学科では、「言葉にまつわって日本の文化と向き合」っていきます。つまり、1年次から4年次に至るまで、本学科では、文学作品や日常の現象、あるいはその背景となっている思想に具体的に触れつつ、あなたとあなたの背景に存在する文化を考えていきます。


 「それは何を意味しているのだろう」「これと同じ事はどこか別の場所でも起きているのだろうか」・・・など、あなたが心のどこかで感じている小さな「何か」―問題意識、或いは違和感と呼んでもいいかもしれません―に触れる作業を通して、ある人は、遠い昔に編まれた物語の中に自らの魂のルーツとでも呼ぶべきものを発見するかもしれません。またある人は、語られ、採録された方言や表現の中に、あなたの大切な人たちが繰り返してきた日々のありようを見出すかもしれません。

 何かを論じる、といことは、そうした自分自身のテーマと向き合いながら、さらにその先に存在する他者に向けて、根拠を示しつつ自己を顕(あらわ)すという行為です。その行為のプロセスの中で、あなたは、あなた自身を発見し、そしてまた再発見し、他者と関わりながら変容を重ねていくでしょう。私たちはそのプロセスにおいて、あなたの物語が醸成し変容するための安全な器でありたい、と願っています。

 もし機会があれば、ぜひこのリーフレットを手にとってご覧になってみてください。

 

 

 

 

 

文:日本語日本文学科広報小委員会(リーフレット担当)前谷明子

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第177回】 2018年7月1日

【著者紹介】 木下 華子(きのした はなこ)

 古典文学(中世)担当

平安時代期・鎌倉後・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。

  

「人の形見には手跡に過ぎたるものぞなき」

 

だだをこねた話

 30年以上も前のことだが、子どもの頃、家族を困らせた記憶がある。
 皆が、祖父の思い出を楽しそうに話していた時のことだ。父方の祖父は私が生まれる5年前に死去したため、私は写真でしか祖父を知らない。当然ながら、話の輪に入ることができない。私自身は5人きょうだいの末っ子で、上の4人は兄、加えて少し年の離れた子どもだったため、話についていけずに黙って周りを見ているなど珍しいことでもなかった。普段ならば、そのことで何かを思うわけでもなかった。しかし、どうしてだろう。その日に限って、祖父の話がわからないことがひどく悲しくて、泣き出してしまったのだ。泣きじゃくりながら、「私にはわからない」と訴えたようにおぼえている。
 子どもながらに気付いてはいたのだが、誰にもどうしようもないことだ。後から生まれた私にわからないのは当たり前。祖父とともに生きた時間を共有する家族には、話したい思い出がたくさんあるだろう。それらをともにすることができないのは、私にとっては悲しいことだが、生まれた時期の問題なのだから本当にどうしようもない。泣いて周囲を困らせることでは、決してないのだ。叱られてよい話だったと思うのだが、その時、家族の誰一人として私を咎めなかったことも、よくおぼえている。
 そのやさしさのおかげだろう。私にとっては、ほろ苦いながらやわらかい思い出である。

 

 祖父の手跡

 さて、数ヶ月前のことだが、その祖父の50回忌の法要があった。そのために実家に帰ったところ、準備の途中で、仏壇の抽斗(ひきだし)から私の名前を記した紙が出てきたのだという。書き手は祖父、しっかりした和紙に筆で「華子」と書かれている。
 両親は、最初の子どもが生まれる折に、男の子と女の子と名前を一つずつ決めておいたらしい。その時に祖父が双方の名前を墨書しており、女の子のほうのものが仏壇から出てきた私の名前なのである。長兄の生まれ年は昭和37年(1962)だから、平成30年(2018)の今年から数えると56年も前に書かれたものということになる。
 さすがに驚いた。こんな形で半世紀以上も前の祖父の手跡と対面することになろうとは、思ってもみなかったのだ。しかも、書かれているのは私の名前である。正直なところ、時間も理屈も飛びこえて、祖父が自分の名前を呼んでいるような、語りかけられているような気分になったのだった。
 とはいえ、私も研究者の端くれだから、用例を探し出して、ちょっとした理屈くらいはこねてみたい。字に性格が出るというのはよく言われることだが、筆跡・手跡はその人をまさしく象徴する。
 例えば、『平家物語』巻三の「少将都帰」という章段には、次のような一文がある。丹波少将と言われた藤原成経が、配流先の鬼界ヶ島から都に帰る途中で、故人となった父・成親が籠居していた備前国有木の別所(現岡山市北区の吉備中山周辺)を訪れる場面である。


父大納言殿の住み給ひける所を尋ね入りて見給ふに、竹の柱、ふりたる障子なんどに書き置かれたる筆のすさみを見給ひて、「人の形見には手跡に過ぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでかこれを見るべき」...(略)...

[成経は、父の大納言殿(成親)が住まわれていたところを探して、有木の別所に入ってご覧になると、竹の柱や古びた障子などに故大納言殿が書き置いている慰み書きがある。成経はそれをご覧になって、次のように言う。「人の形見として、筆跡にまさるものはない。父上がこのように書いておかれなかったら、どうしてこの形見を見ることができただろうか」...(略)...]

 「人の形見には手跡に過ぎたるものぞなき」という成経の一言は、目の前に残された筆跡が亡くなった父・成親その人をまざまざと思い起こさせるものだったことを意味する。そこから、成経が生前の父を偲び、涙したことは想像に難くない。筆跡・手跡というものは、時間も場所もこえて、それを残した者と見る者とを強く結び合わせるのだろう。人の手で書かれた文字には、それほどの力が宿るのだ。
 数ヶ月前、私に起こったことも、そういうことなのだと思う。

『平家物語』巻三「少将都帰」(表記は「少将都還」)               

吉備中山・藤原成親供養塔

 



 

 

 

 

 

 

 

 手跡に過ぎたるものぞなき

 今でも、私は、写真と思い出話でしか祖父を知らない。祖父のことを話す人たちの口調や雰囲気から、その人となりをうかがうばかりだ。ただ、数ヶ月前に、祖父が私の名を記した手跡を見た時、芯のあるやさしい字だと思った。そういう人柄だったのだろうか。いずれ生まれてくる孫への思いなのだろうか。半世紀の時を経て、そこに触れたような気がしたのである。物理的な時間や経験はどこまでいっても共有のしようがないが、それらをこえるものが思わぬ形で到来したのだった。
 祖父の手跡は、私の手許にある。泣きじゃくっていたかつての私には想像もつかなかったことだろうが、今の私にはこれで十分なのである。

 

 

※『平家物語』の引用は、新編日本古典文学全集『平家物語』(小学館、1994年)に拠る。
※画像(上)は、下村時房という人物によって慶長年間(1596~1615)に刊行された古活字本の
『平家物語」巻三・「少将都帰」(国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/)。なお、本文の章段名は「少将都還」と表記されている。画像(下)は、吉備中山(岡山市北区)中腹にある藤原成親供養塔。画像の無断転載を禁じます。 

 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

 【第176回】 2018年6月1日

 【著者紹介】
 野澤 真樹(のざわ まき)
 近世文学担当
 主に上田秋成の研究をしています。

 

  勤勉さと眼鏡の関係 ~江戸時代の浮世草子から~

 この4月に本学に着任しました。初めての「日文エッセイ」ということで、エッセイにしては少し堅い内容なのですが、これまでの研究対象のことを書いてみたいと思います。現在、私は主に浮世草子と呼ばれる江戸時代の読み物を研究しています。浮世草子を精読していると、これまで意識していなかった江戸時代と現代との違いに気づかされることが何度もあります。
 次に挙げるのは、『雨月物語』の著者として有名な上田秋成の浮世草子『世間妾形気(せけんてかけかたぎ)』の一部です。

 砂川といふ辺りに小店をかりて、夏冬なしに油扇の絵千枚画て一匁五分。筆の命毛はかなくも親子四人口。さのみむさふも住あらさず、背戸の朝顔葉鶏頭を、目鏡ながらのながめに渋茶のたのしみ。心は貧しからねども、鼻のさきの桃山のさかりを見る事なく、大路の往来にのみ春を知りていくとせをか過ぬ。(上田秋成『世間妾形気』巻四の三)

 この物語の主人公は浪人の「伊右衛門」です。彼が「小店」を借りて住んでいるという「砂川」は京と伏見とを結ぶ伏見街道の途中、いわば町外れにあります。浪人が内職で金を稼ぐ場面は時代劇にもしばしば描かれますが、伊右衛門も当時伏見の名産だった油扇の絵を描く「賃仕事」で生計を立てています。扇絵を千枚描いてやっと得られるという「一匁五分」は、西鶴の浮世草子などによれば家族が一日を送るのに必要な最低金額です。「命毛」は筆の先端部分を指し、さらにその「命」から「はかなし」という言葉を導きます。その筆でなんとか親子四人を養っているというのです。
 彼はいつも家の裏手の「朝顔」と「葉鶏頭」を、「目鏡ながら(眼鏡をかけたまま)」に眺めています。江戸時代の俳諧に「蕣(あさがほ)は世帯くづさぬ詠哉」(『俳諧東日記』)、「広からぬ庭綺麗なり葉鶏頭」(『蕪村翁評発句五十章』)などとあるように、これらは質素な家に植えるものでした。植えるというよりは、どちらも前の年に落ちた種から勝手に芽が出てくる、とても育てやすい植物です。この伊右衛門、心は貧しくないけれど生活は質素で、近所にある桃の名所「桃山」の花盛りを見に行くこともなく、伏見街道に花見客の往来が増えるのを見て春の訪れを知る、といった具合です。人々が好む桃の花ではなく、ささやかな朝顔・葉鶏頭を楽しんでいるのも、彼の清貧さを示すポイントでしょう。

 さて、先の文中に伊右衛門はその朝顔や葉鶏頭を眼鏡のまま眺めているとあります。これは内職にいそしむ伊右衛門の勤勉さを表す一節です。なぜ眼鏡をかけたままでいることが、勤勉であることに繋がるのでしょうか。
 現在では眼鏡をかけて一日の大半を過ごす人が一定数います。その感覚で行けば、眼鏡をかけたまま花を眺めるのがむしろ自然と感じるかも知れません。しかし、江戸時代の眼鏡は現代のように普段ずっとかけているようなものではなく、何か手元をしっかりと見るときにだけ使用するものでした。逆にその必要がない時には眼鏡をはずすのが普通だったのです。今の老眼鏡に似ていますが、当時は若い人もこれを使用したそうです。つまり、ここでの伊右衛門の眼鏡は「油扇の絵」を描く作業のためのもの。それをかけたままいるということは、彼が眼鏡をはずして休憩することもせず、仕事に精を出しているということを表しています。
 『世間妾形気』より少し前の浮世草子『武遊双級巴(ぶゆうふたつどもへ)』にも次のような表現があります。

 摂州難波潟、安久寺町といふ所に、目自慢の太次右衛門といふ両替屋あり。...ふだん眼鏡はなさず、そろばんひぢにつゐて、天秤の前をはなれぬ心がけから、自然と勝手も宜しく、手代の四五人も置ならべてくらしける。(『武遊双級巴』巻五の一)

 ここで両替屋の「太次右衛門」は「ふだん眼鏡はなさず」、十露盤を肘のそばに置いて、商売道具の天秤の前を離れぬことを心がけたので、金回りもよくなり四五人の手代を雇って暮らしていたといいます。どうやら伊右衛門よりは懐があたたかそうですが、ここでも眼鏡を手放さないことが彼の仕事熱心な様子を表現しているでしょう。
 享保17年に刊行された『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』という本に、当時の眼鏡の種類や作り方についての説明が載っています。それによると、眼鏡のレンズには朝鮮から輸入された「白びいどろ」の茶碗の割れたのをリサイクルして使うこともあったそうです。限られた材料を有効利用する職人の工夫がうかがえますが、当時の眼鏡が現在よりも粗末な作りだったことは言うまでもありません。それを一日中かけていたら、かなり目が疲れたのではないでしょうか。
 少し眼鏡に深入りしてしまいました。このような小さな違いに気づくことで当時の人々の生活が身近になった気がして、それが私の研究上の楽しみでもあります。この小さな発見を原動力に、これからも様々な作品を読み解いていきたいと考えています。

   

 伏見街道「第二橋」の跡

 

  『万金産業袋』巻之三

 画像1...伏見街道「第二橋」の跡(2017年3月野澤撮影)
 画像2...『万金産業袋』巻之三(国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/より)

《引用文献》
『世間妾形気』...『上田秋成全集』第七巻(中央公論社、平成2年)
『武遊双級巴』...『八文字屋本全集』第十五巻(汲古書院、平成9年)
『俳諧東日記』『蕪村翁評発句五十章』...『俳文学大系』(古典ライブラリー)

 

 画像の無断転載を禁じます。