日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第168回/学科広報委員による寄稿】 2017年10月1日

【著者紹介】
原 豊二(はら とよじ)
古典文学(中古散文)担当/学科広報委員

源氏物語など平安時代の文学を多角的に研究しています。

  

小鴨神社三十六歌仙額と書道卒業制作履修学生とのコラボ

 

小鴨神社三十六歌仙額(一部)

 2017年3月19日、小鴨神社(鳥取県倉吉市)で、修復を終えた三十六歌仙額が一般に公開された。この三十六歌仙額は天文6年(1537)に制作された国内最古級のものであり、歌人の姿絵とともに、その詠歌が流麗な書体で書かれている。もちろん経年による劣化もあり、現状では読みづらい部分も多かった。
 さて、遡ること1年前、小鴨神社の宮司の井上智史さんから連絡があり、懸案事項であった歌仙額の修復に補助金が下りたことがわかった。修復後のことを見通し、何か私もできることはないかと考えていたところ、わが日本語日本文学科の学生には「書」の精鋭たちのいることを思い出したのである。書道卒業制作を履修している学生たちである。
 早速、授業担当の佐野榮輝先生(現・本学名誉教授)に相談したところ、早速、復元模写の指導をご快諾いただいた。果たして精鋭たちが数ヶ月の時間をかけて、比較的状態のよい10枚(1枚に1首)の和歌を復元してくれるという。しかも、可能な限り、500年ほど前に書かれた状態での復元を目指すというのである。
小鴨神社三十六歌仙額(紀貫之) ところが、この後に多くの困難が待ち構えていた。まず摩滅した文字からは、最悪の場合何の情報も得られない部分があるのである。つまり、字母(仮名の元になる漢字)が判断できないのである。一字一字の喪失箇所は、佐野先生や学生の想像力に頼ることになる。また、室町時代の仮名の書というのは、日本の書道史の中でもあまり触れられない時期であり、学生たちにとっても未知の時代に当たる。この歌仙額が当初奉納されたのが、宍粟市にある山崎八幡宮であることから、近隣に荘園を持っていた冷泉家の人々が、この和歌の筆者ではないかと後に推測したが、この時点ではよくわからなかった。
 第22回書道卒業制作展は、2017年1月19日から22日までの間、岡山県生涯学習センターで開催された。この年は佐野先生の定年退職の年でもあったから、関係者にはいろいろな想いが重なっていたようだ。22回という一つの歴史から、多くの卒業生が来場したと聞いている。その中に、復元模写「小鴨神社・三十六歌仙額」もあった。倉吉から井上宮司も来られて、ようやく学生たちの想いを伝えることができた。次は3月の、小鴨神社での公開が大きな目標になった。
書道卒業制作履修学生による復元模写(紀貫之) 当日は午前中から神社内でいろいろな準備であたふたしていたが、天野山文化遺産研究所によって全面的に修復された三十六歌仙額は確かに生まれ変わっていた。もちろん、こちらは現状を重視した修復であるから、極端に見た目は変わらない。けれども、文化財を未来に伝えるというプロの仕事をよくよく承知したのであった。その本物の横に、わが清心の精鋭たちの書を貼った屏風が置かれていた。当日の私の講演でそのことを繰り返し話したこともあってか、彼女たちの作品はNHKの地方ニュースの電波に乗ることになった。本気の復元が、多くの人々の興味を惹いたのであろう。
 思い返すと、私が米子工業高等専門学校に在職の折、この三十六歌仙額を知ることになった。前任校では、工業系の学校ということもあってか、撮影した写真を大きく拡大したレプリカを制作し、神社に奉納した。なぜレプリカが必要であったかであるが、それは修復以前の歌仙額は、絵の具が剥落する危険性が高く、移動はおろか、展示さえも制限せざるを得なかったからである。修復後は、条件にもよるが、移動が可能なので、各地の博物館や美術館での展示も現実のものになると思う。よって、このレプリカは当初の役割を終えることになった。では、学生たちの制作した復元模写はどうなるのだろうか。
 実はこの復元模写も、小鴨神社にそのまま奉納されることになった。今後、この神社で保管されるものと思う。けれども、この復元模写は、これから始まる姿絵も含めた全体の復元の嚆矢となり得る、ということは述べておきたい。これは完全模写の大きな第一歩になる、と。だから、いつかより大規模で精緻な復元が完成されれば、この復元模写もその主な役割を終えるのかも知れない。
 文化財を守るとか、文化的営為を続けていくかとかいうことは、実はとんでもなく大変なことで、これに携わる人々の不断の努力の結果としてある。中世期の歌仙額が今に伝わること自体が奇跡なのかも知れない。そうであるならば、その奇跡をより確かなものにしてゆくことこそが、私たち「日文」の役割なのではないか。
 2016年10月21日に発生した鳥取県中部地震の爪痕が、半年近く経っても倉吉の街には多く見受けられた。その復興への願いと、学生・関係者への感謝の気持ちとを表して、「筆」を擱きたい。

書道卒業制作履修学生による復元模写(全10点)

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

参考文献:原豊二「山陰地域の三十六歌仙絵-手錢家所蔵資料を始発として-」『国文学研究資料館紀要 文学研究篇』第40号(2014)

  

※ 画像は上から、小鴨神社三十六歌仙額(一部)、小鴨神社三十六歌仙額(紀貫之)、書道卒業制作履修学生による復元模写(紀貫之)、書道卒業制作履修学生による復元模写(全10点)。画像の無断転載を禁じます。 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第167回】 2017年9月1日

【著者紹介】 星野 佳之(ほしの よしゆき)

 日本語学担当

日本語の意味・文法的分野を研究しています。

  

落ちてくる言葉

 

 私は国文学科というところを卒業し、今は日本語日本文学科というところで働いている。専門は語学だが、文学と語学の隣り合う幸いな環境のお陰で、恐らく人並み以上に歌や物語というものに近しく接してきたと言えるのではないだろうか。しかしうろ覚えというのもあるもので、最近確認するまで、次の歌を私は挽歌、つまり亡き人について詠んだ歌だと思い込んでいた。

玉の浦の 沖つ白玉 拾へれど またそ置きつる 見る人を無み (万葉集・巻15・3628)

玉の浦の底の白玉を拾ったがまた元の所に戻した。見せるべき人がいないので。

(本文は、小学館『新編日本古典文学全集 萬葉集 四』による)

この歌は、次のように終わる長歌に添えられたものである(反歌という)。

『万葉集』(本学特殊文庫・正宗敦夫文庫蔵本、正二〇)

...海神(わたつみ)の 手巻きの玉を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて 返し遣る 使ひなければ 持てれども 験を無みと また置きつるかも(万葉集・同・3627)

海の神の腕輪の玉を土産として妻に送ろうと拾って袖に入れはしたが、届けてくれる使いがいないから、手にとったものの、しかたがないとまた元に戻したのだった。

明らかに家に残した妻を想う歌であって、どうしてこれを挽歌だと思ったものか。それでも挽歌であるなしにかかわらず、いい歌であると思う。
 ただ、このような歌や物語の一節やを幾つか持っていたとしても、それが人生の節目にふと思い浮かんだりするものでもないらしい。先頃母を亡くしたときに立ち現れたのも、歌などではなく、少し意外な言葉であった。

 母の発病の少し後、医者の先生から「どこまで延命治療を施すか」を問われた時のことである。その時母は意識はなかったものの、自発呼吸を回復して人工呼吸器がとれていた。あれは喉に太い管がずっと入っているので、相当に苦しいのだそうだ。なので父と弟と、「再度人工呼吸器をつけることはお願いしない。それまでは治療の継続をお願いする」というところで線を引くことにした。そのことを母の父親代わりのような伯父に伝えると、「そんなところだろうな」といって次の話をしてくれた。

 母は7人きょうだいの末っ子で、早くに父親、すなわち私の祖父を亡くしている。そして彼女が高校生の時に祖母も倒れ、伯父が長兄として、当時には相当困難な処置であった胃瘻(いろう)を断念するという判断をしたという。この判断に母は、「それがいいね、兄ちゃん。母ちゃんは、ここまでの生命力だったんだね」と言ったそうだ。「だからお前の母親も、人工呼吸器までは要らないと言うんじゃないかね」と、伯父は言った。
 私たちの判断を伯父が尊重してくれることは想像もできたが、50年も前の、意図せざる母本人の言葉が、「それがいいね」と肯うような形でぽとりと落ちてくるとは、思いも寄らぬことであった。母は母に許されたまでの生命を果たして行った。彼女の言葉や行動が、私の生きている間にまたぽとりぽとりと落ちてくる折もあるだろう。

 こういうわけで少し意外なことに、このような場合に立ち現れたのは、今まで親しんできた文学の一節などではなかったのである。では文学は私にとって意味のないものとなったかというと、そうでもない。
 平生も今も、別に私は文学の中にわざわざ自分の境遇を見出そうとしないし、また文学は私にとって折よく気の利いた言葉を示してくれるような差し出がましいものでもない。挽歌だと思っていた例の万葉歌の歌い手とて、誰か他人の慰めの為に歌を詠んだのでも、まして詠めば何かが解決されると無邪気に信じていたのでもあるまい。彼が目の前や自分の中にあるものと向き合った結果が、歌と成ったまでである。そう思うので、この歌にふれて私が気になるのも、割と単純なことだ。その後彼は世を去るまでにまた妻に会えたろうか。美しいものを見た充足や辛い目に遭った時の失望が共有できる相手を再び持てたろうか。そうであってほしいなと思うだけである。それでよいのではないかと思うし、それで文学は十分に貴い。

  

※ 画像は、本学蔵『万葉集』(特殊文庫・正宗敦夫文庫、正二〇)。
  本学の特殊文庫については こちら をごらん下さい

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日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第166回】 2017年8月1日

【著者紹介】 木下 華子(きのした はなこ)

 古典文学(中世)担当

平安時代後期・鎌倉・室町時代の和歌や、和歌をめぐる様々な作品・言説について研究しています。

  

鬼はどこにいる?──桃太郎・温羅伝説と能「吉備津宮」から──

 

岡山ゆかりの能「吉備津宮」

 2017年5月13日(土)、観世流能楽師・林宗一郎氏によって復曲された岡山ゆかりの能「吉備津宮」が後楽園能舞台で初披露された。「吉備津宮」は、岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社の由来を語る能で、桃太郎伝説のモデルとなった吉備津彦命による温羅(うら)退治を軸とし、著名な鳴釜神事を取り込むなど、岡山の歴史と深く結びついた曲である。復曲を監修した能楽研究者・松岡心平氏の解説をもとにあらすじを記すと、以下のようになる。
      

[前場(前半)]
「吉備津宮」復曲記念公演チラシ吉備津宮の釜の鳴動という神異を確かめるために、天皇は勅使を派遣する。到着した勅使が話を聞こうとすると、庭掃きの老人が現れ、神社の縁起を語る。かつて異国から来た鬼・吉備津火車(温羅)が新山に住み、鬼ノ城を築いて瀬戸内海の海運を妨害したため、朝廷はいさせり彦を大将とする軍勢を派遣した。火車は勇猛に戦うが、ついに力尽き、自らの武勇の名が消えることを悲しんで「吉備津」の名をいさせり彦に譲る。いさせり彦は吉備津彦と名乗り、火車は吉備津宮に付属する末社となった。老人はこのように語った後、自分は岩山の神(=吉備津宮の地主神)だと明かし、姿を消す。

[間狂言](前半と後半の間に演じられる狂言、寸劇のようなもの)
勅使が吉備津宮に仕える神職に鳴釜のことを尋ねると、神職は由来を語り、阿曽女(あぞめ)を呼んで鳴釜神事を行う。釜は大きく鳴動した。

[後場(後半)]
前場で姿を消した老人(岩山の神)が、神の姿となって現れ、吉備の山河を祝福し、天下太平を寿いで神々しく舞う。
   

 いさせり彦(吉備津彦)と吉備津火車(温羅)は、桃太郎伝説における桃太郎と退治される鬼のモデルである。昔話「桃太郎」の主人公は勝者である桃太郎、つまり吉備津彦だが、「吉備津宮」の主人公は、現在も吉備津神社内に祭られる吉備国の地主神・岩山の神だ。曲内でも、敗者である火車の勇猛な戦いにスポットが当てられ、勝者・吉備津彦の名も「吉備津」火車から譲られている。火車とは、強大な力で大和朝廷に対抗したいにしえの吉備国の象徴なのだろう。「吉備津宮」とは温羅側・吉備国側から見た桃太郎伝説の様相を呈した、まさしく岡山ゆかりの能なのである。

  

鬼の住み処

 今回、「吉備津宮」の詞章(能の文章)を見て、おやと思ったことがある。「吉備津宮」では吉備津火車(温羅)の住み処は「新山(にいやま)」であり、そこに大石を高く積み上げて鬼ノ城を作ったとされる。
 新山は現在の総社市黒尾、鬼の釜がある周辺の山岳地帯であり、鬼ノ城跡・岩屋寺もほど近い。鬼ノ城周辺ならば、火車の居場所として当然だと思えるが、実はそうでもない。室町から江戸時代にかけて成立した吉備津彦・温羅伝説に関わる文献を見渡すと、鬼に当たる存在(温羅・吉備津冠者など)の住み処は、新山に固定されてはいないのだ。

  資料名 成立年代 鬼に当たる存在の住み処
1 備中吉備津宮勧進帳 1583年成立 備中国賀陽郡の高山
2 備前吉備津彦神社縁起写 1677年書写 吉備の中山の西北・阿宗郷の山
3 備中吉備津宮縁起 1700年書写 備中国賀陽郡阿宗郷
4 吉備津宮(磐山トモ) 室町~江戸 新山
5 備中国大吉備津宮略記 1800年代か 吉備国・賀陽郡の窟山(いわやま)
6 備中一品吉備津彦明神縁起 未詳 備中国賀陽郡新山
7 備中吉備津宮縁起 未詳 備中国賀陽郡の北・阿宗郷の上
8 巖夜鬼城記 未詳 備中国賀陽郡巖夜嵩(いわやのみね)
9 鬼城縁起写 未詳 備陽国巖夜嵩(いわやのみね)


 上の表の4が今回復曲された「吉備津宮」だが、鬼に当たる存在が「新山」に住むのは、他に6「備中一品吉備津彦明神縁起」くらいである。2・3・7の「阿宗」は「阿曽」とも表記される古い地名で、鬼ノ城の南、現在の総社市東阿曽・西阿曽周辺だろう。5・8・9の「窟山」「巖夜」は、鬼ノ城北側の岩屋寺周辺を指すと思われる。「阿宗」(阿曽)は温羅の妻とされる阿曽媛や鳴釜神事に奉仕する阿曽女との関連から選ばれる地名だろうし、「窟山」や「巖夜」すなわち「岩屋」は鬼の住み処としてふさわしい(巨大な石室などを備える古墳が「鬼の岩屋」と呼ばれる例は多い)。ならば、「吉備津宮」が鬼=吉備津火車(温羅)の住み処として「新山」を選び取ったのには、何か理由があるのだろうか。

関連地図(岡山県南部) 

「新山」と異国

 新山という地名は、新山寺や新山別所を意識したものと思われる。新山寺(現在は廃寺)は、現総社市黒尾の新山(標高405m)とその付近に位置した平安時代に隆盛した山上の仏教寺院だ(鬼の釜周辺をイメージしていただきたい)。平安中期、天台宗に学び宋に渡った成尋(1011~81)という高僧がいるが、成尋は入宋直前の1071年、備中の「新山(にひやま)」で百日の修行を行っている(参天台五台山記・成尋阿闍梨母集)。
 この付近は新山別所とも呼ばれていた。別所とは大寺院などから離れた一定の場所に修行者が集まって多くの草庵が結ばれた場所であり、定秀という僧が新山別所に12年住み、1076年に往生を遂げた話も残る(拾遺往生伝)。実は、新山別所は、1180年に炎上した東大寺の再興に尽力した高僧・重源(1121~1206)と深い関わりを持つ。重源作の『南無阿弥陀仏作善集』には、重源が「備中別所」に浄土堂を建て阿弥陀像を安置したと記録される。この「備中別所」は新山別所である可能性があり、「鬼の釜」は重源が寄進した湯釜という説もある。この重源、1167年に宋に渡っており、帰国後の彼の周辺には来日した宋人たちがいたようだ。東大寺復興に当たっては、重源との縁で、多くの宋人が登用されている。
 このように見てくると、新山寺・新山別所は、外国とのつながりを持つ場所だと理解できる。そもそも、「吉備津宮」において、吉備津火車(温羅)は悪行の余りに「異国」から日本に流されてきた存在だった。備中にやってきた吉備津火車(温羅)が新山に住むのは、実に自然なことだったのではないか。異国から来た鬼は異国への扉を持つ土地を住み処とした、そう考えておきたい。

鬼ノ城鬼の釜

 



 







おわりに

 いにしえの吉備国は、瀬戸内海に面した地の利を活かし、中国大陸・朝鮮半島との交易を盛んに行っていた。二度の入宋を経て、日本に臨済宗をもたらした栄西(1141~1215)は備中吉備津宮の賀陽氏の生まれだ。入宋僧である成尋や重源の事跡をも併せると、岡山という地が、古くから外に開いていたことが理解されよう。その記憶の反映こそが、鬼(温羅)の住み処「新山」だったと思うのである。

   
   

追記:
私的な感想だが、復曲公演を拝見した折の感動と興奮は、とても書き尽くせない。舞台に吉備津神社や鬼ノ城が現前するような感覚を味わい、時間が経つのも忘れて夢中になっていた。こんなにも能が面白いと感じたのは初めての体験である。昨年から今年にかけて、山陽新聞には「吉備津宮」に関するたくさんの記事が掲載されているので、興味を持たれた方はぜひともお読みいただきたく思う。

  

※「新山」に関する説明を、一部、訂正しました。(2017年8月4日)
※画像(上)は吉備津宮復曲公演のチラシ、(中)は岡山県南部の関連地図、(下左)は鬼ノ城、(下右)は鬼の釜。画像の無断転載を禁じます。 

日本語日本文学科 リレーエッセイ

【第165回】 2017年7月1日

【著者紹介】 綾目 広治(あやめ ひろはる)

近代文学担当

昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。

 

非正規雇用社会と現代文学
―「非正規レジスタンス」と『東京難民』―

 

 「非正規レジスタンス」(原題「非正規難民レジスタンス」)は、石田衣良の人気シリーズである『池袋ウエストゲートパークⅧ』(文藝春秋、2008・8)に収められている小説です。この物語は、シリーズの主人公で語り手でもある真島誠が「ある雑誌」のコラム執筆のために、フリーターの柴山智志(サトシ)を取材するなかで、サトシの話からフリーターの過酷な生活を知ることから始まります。

石田衣良著『非正規レジスタンス』文春文庫 たとえば、サトシは「人材派遣最大手」の会社から企業へと派遣されて働いていますが、派遣業者による給料のピンハネ(労働者の給料のうわまえを取ること)のために苦しい生活を強いられています。派遣会社の「ベターデイズ」は一人当たり11,000円から12,000円で仕事を請(う)け負いながら、当の派遣労働者たちには6,500円から7,000円しか渡さないのです。4,000円から5,500円のお金をピンハネしているわけです。当然、サトシたち派遣労働者の生活は苦しく、彼らはネットカフェなどで夜を明かしているとされています。

 悲しいのは、そういう不当な労働条件に置かれながらも、その状態に陥っていて辛い日々を過ごさざるを得ないのは、「すべてがただの自己責任なのだ」とサトシが思っていることです。サトシについて真島誠はこう語っています、「やつはあんな絶望的な状況でも、誰もうらまないという。すべては自己責任だといって自分を責めている」、と。むろん、それは自己責任ではありません。政治と社会の責任です。以前、欺瞞(ぎまん)的な自己責任論を語って、自分たちが負わなければならない政治責任を、不幸に陥っている人たちにまさに責任転嫁(てんか)した政治家がいましたが、「非正規レジスタンス」を読むと彼ら派遣労働者たちに問題があるのではないことがわかります。不幸にも彼らは、非正規労働をせざるを得ない状況にあったということがわかります。
 たとえばサトシは、「気がついたら、日雇いの派遣の仕事をして、ネットカフェで寝泊まりするようになっていたんだ」と語り、また真島誠も、家族や友人さらに財産など、普通は誰でも一つくらいは自分の身を守るバリヤーがあるのだが、「でも、なにかの理由でそのバリヤーが全部ダメになっちゃうと、今は誰でも難民になる時代なんだと思う」と語っています。物語は「人材派遣最大手」の「ベターデイズ」が派遣法違反で一ヶ月の業務停止処分となり、その社長は代表権を持たない会長に退いたという、まずは穏やかな終わり方をしていますが、しかし現実の社会では、非正規労働者が急増し、その雇用条件は悪化の一途を辿っています。そして、非正規雇用の増加とともに格差と貧困の問題も一層深刻になっています。文学者たちもその問題に眼を向け始めています。

 福澤徹三の『東京難民』(光文社、2011・5)は、私立大学3年生であった主人公の青年が、実家が破産して親と連絡が取れなくなり、授業料も払えなくなって、そのために大学を除籍になり、すぐに現金が入りそうな短期のアルバイトをし始める話です。たとえば、テレアポ、ティッシュ配り、治療試験の仕事、ホスト、さらには日雇い作業などをやっていきます。しかし、まとまったお金がないために、それまで住んでいたマンションを追い出され、友人の部屋に居候したりもしますが、そこも居づらくなり、ネットカフェで寝泊まりするようになります。そして、遂にはホームレスのテント生活をすることになります。
福澤徹三『東京難民』/光文社文庫 この小説は非正規の仕事の様子を読者に知らせようとしているかのように、主人公が体験した仕事の中味について詳しく語られてもいて、読者の関心を惹(ひ)き付け、また主人公の善良な性格も好ましいものであり、なかなか読ませる物語となっています。そして、主人公の青年がテント生活に別れを告げて、人生の新たな模索をする、というところで物語は終わっていて、まずは希望の持てる話となっています。しかし、それにしても普通の大学生の生活をしていた主人公の転落ぶりには凄まじいものがあります。この転落ぶりは決して物語の中でだけの話ではなく、現実にもこのような転落は、とくに稀(まれ)だとは言えないようです。そのことは、増田明利の『今日、ホームレスになった』(彩図社、2012・9)や『今日からワーキングプアになった』(同、2015・10)などのルポルタージュを読むとわかります。
 今回は、非正規雇用の問題を小説に取り込んだ二つの現代文学について見てきました。もちろん、作家たちはその問題を告発して世論に訴えているわけです。文学を研究する側も、そういう現代の喫緊(きっきん)の問題を、現代文学を読むことを通して考えていきたいと思います。本学科の授業では、そのような言わばホットな問題を扱った文学作品も対象にしています。現代社会や現代文学の問題に関心のある人は、本学科で学んでみませんか。

 

※画像は上、石田衣良著『非正規レジスタンス』文春文庫。
下、福澤徹三『東京難民』/光文社文庫。
 画像の無断転載を禁じます。 

文字をつむぎ、言葉をひもとく
―日本語日本文学科リーフレット完成のお知らせ―

 

完成した学科リーフレット(2018年度入試用)

 例年よりは遅い桜が咲く頃、今年も大学にたくさんの新入生を迎えました。そしてまた新年度の授業が開始され、日本語日本文学科の教員達も、毎日の授業準備に追われながらも、何となく活気に満ちています。そんな中、今年も新年度用の日本語日本文学科広報紙の編集作業が始まりました。
 この学科広報紙は、大学が公式に刊行している「キャンパスガイド」とは別に本学科が独自に作成しているリーフレットで、学科所属の教員と事務職員からなる「日本語日本文学科広報小委員会」が編集しています。

 このリーフレットでは、本学科が開講する授業や、在学生・卒業生などをご紹介しています。掲載した授業もほんの一部ですし、生き生きと学ぶ在学生や、社会で活躍している卒業生についても、全ての方の笑顔をご紹介できないのは本当に残念ですが、どんな学生や教員がいて、どんなことが学べるのか、本学科の雰囲気を少しでも具体的にお伝えできればと考えています。
 編集にあたっては学科広報小委員会で何度も検討を重ね、また校正作業では学科の教員達も率先して協力をしてくれ、慌ただしくも順調に作業を進めることができました。
 
 「文字をつむぎ、言葉をひもとく」―これは、このリーフレットの表紙に記されている言葉です。
 皆さんも感じていらっしゃると思いますが、文字や言葉は、私たちの心の本当の思いを伝えるためには、時として無力です。あの時伝えられなかった思い、いますぐには言葉に表せない思い、後に続く誰かに残したい思い―文字や言葉は、心を伝える道具に過ぎません。私たちの心は、文字や言葉、時間や距離、そして私たちの持つあらゆる「差異」をさえ、遙かに超えていきます。あるいは、人の心の奥深くにある思いや、その真実というものは、文字や言葉では語り尽くすことができないものなのかもしれません。
 ただ、私たちはこのことについて、謙虚に、しかし諦めない姿勢で、私たち人間の、思い、心、真実に、文字や言葉や、その表現をたよりとして近づこうとしています。その私たちの姿勢は、日本文学や日本語学や、言語文化などの日々の授業の中で、学生達に対して、時に熱く、時に少し照れながら、または心の痛みを伴いながら、教員それぞれの内的な体験と照らし合わせつつ、伝えられています。教室の片隅で、その授業のその一瞬が、そののちずっと忘れられないあなた自身の体験となり得ることを、私たち自身が自らの体験として知っています。そして私たちは、そういった体験をこそ、学生達と共有したいと願っています。
 
 ついこの前まで満開だった桜もとうに散って、気がつけば梅雨の季節になり、新しいリーフレットが完成しました。
 もし機会があれば、ぜひ、この新しいリーフレットを手にとってご覧になってみてください。

紹介在学生の撮影風景

 

 

 

 

 

 

文:日本語日本文学科広報小委員会(リーフレット担当)前谷明子