【著者紹介】 野澤 真樹(のざわ まき)

 近世文学担当
 主に上田秋成の研究をしています。

 

  江戸時代の「替え歌」

 

 子供のころに何らかの替え歌で遊んだことのある人は多いのではないでしょうか。替え歌にはよく知られた歌のメロディーに全く別の歌詞をのせるものと、元の歌詞の一部を改変するものとがあります。前者ですと、私は小学生の時には「アルプス一万尺」のメロディーで「となりのじっちゃんばっちゃん芋食って屁こいて大事なパンツに穴あけた」と歌うものがありました。当時はこれだけで大笑いしたものです。
 ある程度大人になっても楽しめるのはむしろ後者でしょう。私の実体験では、大学1回生の頃、大学祭の催しの宣伝に、「修二と彰」というユニットの「青春アミーゴ」という楽曲の替え歌を利用したことがあります。著作権の問題もありますのでここでその内容を紹介することは控えますが、その替え歌を仲間と一緒に考えた時には、やはり皆大笑いしながら様々な歌詞を提案し合ったのを覚えています。
 江戸時代には「地口」と呼ばれる一種の駄洒落が行われました。同じ発想から、よく知られた歌謡の替え歌があったのは自然なことと思われます。しかしこれらはひとときの慰みであり、それを取り立てて書き残した資料を私は知りません。替え歌の存在が確認されるのは当時の人間模様を伝える文学作品からです。
 例えば、明和(1764~1772)から安永(1772~1781)にかけての作品に下のような替え歌が頻繁に見られます

 亀次郎・仲兵衛段々に数寄屋へ入ば、お香、挨拶ていねいに爐の炭を仕かけらるる粧ひ、さりとは古今に稀なる風流、三人の客は一向見とれて...「此様な恋しい茶の湯が唐にもあろか」と上客金多郎が心の内の嬉しさ...(明和7年1770刊『風流茶人気質』)

 内儀が心得、徳利提げて呑酒やへはしり、店にならべし鉢ざかな、にしん棒鱈取まぜて帰り、「一つあがれ」と出しければ、さいつおさへつつまみぐい、「こんなゑいにしんがたらにも有ろか」と出ほうだいにうたひながら女郎の膝に足もたせ分相応の楽しみは...(明和8年1771刊『俄仙人戯言日記』)

 「さあこれからは参宮※1の用意のみ」となんでも見せの売出しをつなぎ立て、御神様への御初穂、末社末社の参銭...笠も脚絆も壱やうに皆子母銭※2で買ひたつれば、買ふたといふは名ばかり我物いらずの旅ごしらへ、「こんな参りが唐にもあろか」とはなうたのつれぶし...(安永2年1773刊『向不見闇農礫』) ※1 伊勢参宮のこと ※2 使っても減ることのない不思議な銭

 「こんな○○が○○にもあろか」というフレーズは様々なバリエーションを見せながら多くの作品に登場します。この元ネタが伺える記述として、明和五年に刊行された『加古川本艸綱目』に「こんな貞女が唐にもあろかと唐迄もひけらかした時花歌に」とあり、ここに「時花歌(はやりうた)」とあるので、この元となったのが当時の流行歌謡であったことが知られます。
 その歌謡は先に挙げた作品に少し遅れ安永5年(1777)に刊行された『艶歌選』という本に見えます。『艶歌選』は当時宴席や遊廓で歌われた流行歌謡を戯れに漢詩に訳した作品で、ジャンルでいうと「狂詩集」と呼ばれるものです。この作品には歌謡の詞章とそれを漢詩に訳したものとが載りますが、ここでは該当する歌謡の本文のみを紹介します。

 ひろひせかいにすみながら せもふたのしむまことと誠 こんなゑにしが唐にもあろか

 ちょうど明和・安永の頃、これが遊廓や酒宴の席上でしばしば歌われていたのです。元ネタを知ると、例えば先の『俄仙人戯言日記』が「こんなゑにし(縁)」を「ゑいにしん(良いニシン)」、「唐」を「たら(鱈)」という風に洒落を聞かせていることがわかり、いっそう面白く読むことができます。
 話題はエッセイの冒頭に戻りますが、そもそも「青春アミーゴ」という曲を知らない人と、その替え歌を共に楽しむことは不可能です。つまり替え歌とは元となる歌を知っているコミュニティのみに有効な笑いなのです。人によっては伝わらない笑いだからこそ、それを共有していることの喜びが増すのでしょう。
 後に挙げた「こんなゑにしが...」の歌謡は「青春アミーゴ」と同様に享受者の世代を限定する笑いといえます。この歌が流行した時期に遊廓などでこれを耳にした人々は作中の替え歌を大いに楽しんだに違いありません。一方で江戸時代の流行歌謡をリアルタイムに聴いたことのない我々は、様々な同時代資料を駆使してその元ネタにたどり着く必要があります。容易なことではありませんが、元ネタにたどりつけた時には少しだけ当時の人々の仲間入りができたような気がして嬉しく感じたりもします。

 国立国会図書館蔵 『艶歌選』 ※左右の頁にまたがるのが「こんなゑにしが...」の歌謡本文(国立国会図書館デジタルコレクションより)

《引用文献》
『風流茶人気質』...早稲田大学蔵本(早稲田大学図書館古典籍総合データベース
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he13/he13_00380/index.html)
『俄仙人戯言日記』『向不見闇農礫』...上方藝文叢刊10『浪花粋人伝』(八木書店、l983)
『加古川本艸綱目』...『潁原文庫選集』第二巻(臨川書店、2017年)
『艶歌選』...国立国会図書館蔵本(国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/

第24回書道卒業制作展を開催します

今年度も恒例の書道卒業制作展を開催します。
4年間の書道学修の集大成としての作品展です。
ぜひご来場くださいますよう、お願い申し上げます。

24_syodo_Poster_A.pdf
第24回書道卒業制作展ポスター。
クリックするとPDF版が開きます。

 

会期: 2019(平成31)年 1月17日(木)~20日(日)

時間: 10:00~18:00(但し最終日20日は15:00まで)

会場: 岡山県生涯学習センター 展示スペース

    〒700-0016  岡山県岡山市北区伊島町3丁目1-1
    TEL:086-251-9750(代表)

 

【著者紹介】 川﨑 千加(かわさき ちか)

  司書課程担当 図書館も使った情報リテラシー教育を研究しています。

 

"遍在する"ということ

1.はじめに
   情報技術はコンピュータの小型化,高性能化,ネットワーク化によって日常の生活の中に溶け込んでいる。誰もがスマホなどを持ちいつでも,どこでもネットに接続され,スマホなどに話しかければAIが答えてくれるような社会をユビキタス(ubiqitous)社会という。このユビキタスという言葉の語源は,ラテン語の"ubique"であり,もともとの意味は神が同時に,どこにでも"遍在する"という意味だそうだ(注1)。

 

2.宣教師シドッティ

 豊臣秀吉の伴天連追放令が出された1587年以降,異国の宗教であるキリスト教は徹底的に弾圧を受け,その後200年以上にわたり禁教となった。しかしキリシタン弾圧後,すでに日本への宣教師も途絶えて100年近くになって,鹿児島県の屋久島に辿り着いた一人の宣教師がいる。シドッティ(Giovanni Battista Sidotti, 1668-1714)である。
 彼はイタリアのシチリア島パレルモ出身で,ローマで学びローマ教皇庁法律顧問となったほど優秀な司祭だった。ローマ教皇による日本布教の復活の命を受け,1708 年8月に日本を目指してマニラを出航し,同年10月11日大隅国屋久島に上陸したとされる。シドッティは教皇の命を受けてから日本のことを独自に学び,上陸時は和服帯刀の姿であったとされている。写真1『西洋紀聞』上の表題紙(国立国会図書館デジタルコレクションより)
 シドッティは屋久島に上陸後,村人に助けられ長崎へ連行されるまでの約2週間ほど,屋久島の南西部にあった恋泊村(こいどまり村)に滞在したようである。屋久島でのシドッティと村人との交流については,屋久島在住の古居智子の『密行 : 最後の伴天連シドッティ』(新人物往来社, 2010)に,島人への温かい視点を交えて描かれている(注2)。シドッティはその後,1709年9月に長崎から江戸へ送られ,来日した目的であった宣教することは許されず,切支丹屋敷で47歳で病死することになる。
 シドッティの生涯が伝えられる背景には,新井白石が著した『西洋紀聞』(注3)の存在がある。当時の6代将軍徳川家宣の特命を受けた白石がシドッティの取調べを行ったことから本書が書かれたとされる。シドッティは日本での宣教を願う強い意志を持ち,志を持ち続けたが,白石はシドッティの知性と教養に大いに興味を持ち,鎖国下にあった日本で誰も知りえなかった諸外国のことを聞き取ったようである。『国史大辞典』(吉川弘文館)によると,本書は上中下3巻からなり「ヨーロッパをはじめ海外事情とキリスト教教義の説明および批判を平易な国文で書いた名作」とされている。

                                      

3.屋久島カトリック教会と遍在する聖母マリア

 さて,シドッティが屋久島に滞在した期間は約2週間程度だったと推測されているが,シドッティが上陸した恋泊があった小島地区に屋久島カトリック教会(通称シドッティ記念教会)がある。この教会はシドッティの研究から彼に憧れ,屋久島を訪ねたコンタリーニ神父が祈念して1988年に建設された。

 屋久島は周囲約132キロメートル,面積約504平方キロメートルの円形をした島である。島のほぼ中央には,九州の山岳の最高峰である宮之浦岳(1,936メートル)に,1,000メートルを超える山岳が連なっている。ほぼ山と森林の島と言ってもよく,海岸部からすぐに山に繋がるように,世界自然遺産となった深い緑の原生林が広がる。海岸沿いは砂浜の地帯もあるが,島の周囲は険しい崖がそのまま海に落ちているようなところが多い。そして屋久島の中心部の山々は隆起した巨大な花崗岩の塊である。そのせいかろうそくのような形の岩や豆腐を切った時のようにきれいに切り割られた岩が並ぶなど,奇岩といえるような形の山々も見られる。   

写真2 尾之間三山の山並み 

 シドッティの教会がある小島からは尾之間三山が臨める。先述の『密行』には次のような下りがある。作者である古居氏がコンタリーニ神父を訪ねた時,神父が尾之間三山の1つである耳岳を指し,「これを目にした時,シドッティは非常に感動したことでしょう」と言う。その岩山が神父の目にはキリストを抱いた聖母マリアの胸像に映るのである。

「左の丸い岩が聖母マリアの横顔で,額に深く頭巾をかぶり,憂 いをおびた様子でやや下向きに首を傾げている。そこからひとつ下がったあたりに見える一回り小さめの丸い岩が成人のキリスト写真3 耳岳に現れた聖母子像の頭で,聖母マリアの胸に抱かれるように顔を横に向けている。マリアの衣は襞うつ三角形を作って,山肌の谷に溶け込んでいる」(古居, p.70)。   

   コンタリーニ神父は命がけでここに上陸したシドッティも,この聖母マリアの姿を見たはずであると言う。古居氏は  「山頂の巨石は,ちょっとした光の具合や視点のずれによって,異なった印象を放って見える」(古居, p.70)としながらも,確かに聖母子の姿を見いだすこともできるとしている。

 

4.ユビキタスとAI

 こうした自然の造形物や身近なものにそこにはない別のものをイメージするような,「生命のないものにも人間と同様な感情や表情があると知覚すること」を心理学の用語では「相貌的知覚」と言い,「幼児や原始人のように,自我と環境の未分化な状態で生ずる知覚」とされる(注4)。また,日本人は古代から文学や茶の湯の世界などでも身近なものを別のものに「見立て」て愉しむ感覚を持ってきたと思う。何かに見立てることでそのことは,より大切なものとなる。神ではなくコンピュータが遍在する社会となっても,いつでもどこでも神の姿を見ることができるのは,AIにはない人の"想像力"と"思い"によるのではないだろうか。

 

注1)『羅和辞典』改訂版, 2009,研究社

注2)本書はシドッティの生涯を綿密な調査によって描いているが,2014年に東京文京区の切支丹屋敷跡から発掘された遺骨がシドッティのものと確定したことを受けて,2018年に増補版が敬文社から出版されている。シドッティの小説としては,太宰治の『地球図』もある。

注3)標題紙の画像は国立国会図書館デジタルコレクションの「西洋紀聞.上巻」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761232 2コマ目 右ページの標題紙部分。自筆本三冊が内閣文庫(国立公文書館)に現存する。筆者校訂の『新訂西洋紀聞』(『東洋文庫』113)のほか,岩波文庫でも発行されている。

注4)『日本国語大辞典』(小学館) オンライン版より

 

 【著者紹介】
 綾目 広治(あやめ ひろはる)
 近代文学担当 昭和~現代の文学を、歴史、社会、思想などの幅広い視野から読み解きます。

 

  反骨の文学者たち

 

 本学が位置する岡山県は、実に多くの文学者を輩出したところです。大阪などの大都市圏を除くと、輩出数は西日本屈指です。また、岡山出身ではないけれど、岡山に移り住んだりして、岡山に縁(ゆかり)のある文学者などをも含めれば、岡山に関係のある文学者たちのみで日本の近代文学史を語ることができるほどです。明治初期の翻訳もの中心の時代から現代までの各時代で、途切れなく岡山関連の文学者が登場しているのです。このことに驚かされます。
 その中でも、岡山に縁のある一群の文学者たちには、或る系譜というものがあるのではないかと思われます。それは反骨(はんこつ)の系譜です。反骨というのは、権力や支配体制などに容易に靡(なび)かない気骨(きこつ)、気概のことです。岡山に縁のある文学者の中には、政治的社会的な主張などを特に持っているのではありませんが、しかし、反骨の精神を持った人たちがいます。
 たとえば吉行淳之介(よしゆき じゅんのすけ)です。ただ、彼は生まれてからすぐに東京に移り住んでいます。しかし、彼は〈自分の郷里は岡山である〉という郷土意識を持ち続け、学校の夏休みなどには岡山の親戚の家で過ごしていたようです。
 1941(昭和16)年12月8日、吉行淳之介が通っていた旧制中学校で校内放送が、日本軍による真珠湾攻撃の報を知らせた時、ほとんどすべての級友たちが歓声をあげてグランドに出て万歳三唱(ばんざい さんしょう)をしました。しかし淳之介少年は一人教室に残っていました。彼は当時の軍国主義に対して反発していたのです。あの時代に反軍国主義の精神を堅持するだけでもたいへんなことだったことを考えますと、一見、軟派(なんぱ)な文学者のように見える吉行淳之介ですが、意外に骨太な反骨精神があったことがわかります。
 後になって吉行淳之介は当時を振り返りながら、こう語っています。「そのときの孤独の気持を私はどうしても忘れることができない。/(改行)戦後十年経っても、そのときの気持は私の心の底に堅い芯を残して、消えない」(「戦中少数派の発言」)
 その吉行淳之介が親しみを感じていたのが、同じく岡山出身の文学者の内田百閒(うちだ ひゃっけん)です。内田百閒は、1942(昭和17)年に陸軍の肝いりで作られた日本文学報国会に入会することを最後まで拒み続けた文学者でした。日本文学報国会というのは、文学者に戦争協力させるために作られた団体で、ほとんどすべてと言っていいくらいに、たいへん多くの文学者が入会しました。それは、入会しなければ軍部に睨(にら)まれて執筆機会が与えられなくなることもあったからでした。そうした中で、あくまで内田百閒は入会しなかったのです。吉行淳之介と同じように内田百閒は、反軍国主義の筋を通したわけです。
 なお、内田百閒は、戦後になって日本芸術院への入会を推薦(すいせん)されましたが、これも断っています。そのときの理由が、「いやだから、いやだ」というもので、この言葉は当時の新聞に大きく出たようです。日本芸術院の会員になるということは、文学者でも、また画家や音楽家であっても、芸術家としては名誉だとされているわけですが、内田百閒はそういう権威主義的なものが厭(いや)だったのです。
 その他にも、たとえば大正ロマンの代表者の一人のように言われる、岡山出身で詩人そして画家の竹久夢二がいますが、彼も反骨精神の人だったと言えます。彼は若いときには、でっちあげ事件であった、あの大逆事件で処刑された、日本の初期社会主義者である幸徳秋水たちが作っていた平民社に出入りしていました。竹久夢二の描く美人画のヒロインたちは、寂しそうで薄幸なイメージがありますが、竹久夢二は弱い人、薄幸な人に同情を心からの同情を寄せる人でした。そのことの奥には当時の社会体制のあり方に対する竹久夢二の反骨があったと言えます。
 また、ニヒルな剣豪〈眠狂四郎〉(ねむり きょうしろう)シリーズで一躍、人気時代小説家となった、岡山出身の柴田錬三郎も反骨の人です。彼は軍隊経験のある人でしたが、彼は旧日本軍の空疎(くうそ)で欺瞞(ぎまん)的な精神主義に強烈な嫌悪感を持っていた人でした。兵隊時代には、そのことがどうしても思わず態度に出てしまうために、上官に暴力的な制裁(せいさい)を受けたりして、苦労したようです。〈眠狂四郎〉には、その反軍国主義がそのまま出ているわけではありませんが、空疎な精神主義に対する嫌悪を読み取ることができます。
 このように、岡山出身の文学者には、政治思想などには関心を持たずノンポリティカル(非政治的)ではあるものの、安易に時勢に迎合(げいごう)しない、一本筋の通った反骨に系譜があるように思われます。本学科の授業で、反骨の文学者たちの作品を読んでみませんか。              

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 【著者紹介】
 東城 敏毅(とうじょう としき)
 古典文学(上代)担当 古代和歌、特に『万葉集』について、研究を進めています。

 

  海外の国際学会で活躍する日本語日本文学専攻の大学院生

 文学研究科日本語日本文学専攻には二人の大学院生、博士前期課程に大岡愛梨沙さん、博士後期課程に轟原麻美さんが在籍している。大岡さんは村上春樹をテーマに修士論文を、轟原さんは、司馬遼太郎をテーマに博士論文を目指し、毎日研究に勤しんでいる。彼女ら二人は今年度、ともに海外の国際学会で研究発表を行った。本エッセイでは、二人の学会発表についてと、その様子を報告しておきたい。

 大岡愛梨沙さんは、5月26日・27日に台湾の淡江大学にて開催された「村上春樹国際シンポジウム」に参加し、「『海辺のカフカ』における「暴力」と「癒し」」と題して学会発表を行った。この淡江大学には、アジアにおける村上春樹研究の拠点である村上春樹研究センターが設置されている。

 
 大岡さんは、『海辺のカフカ』を丁寧に詳細に分析し、従来、主にエディプス・コンプレックスと戦争から論じられてきた本作を、作品に即して、「暴力」と「癒し」という二つのキーワードを用いながら、本作に込められた主題を分析した。そして、作品内で触れられる、フランツ・カフカの『流刑地にて』、夏目漱石の『坑夫』、そして、プラトンの『饗宴』と本作との関係を分析し、これらの作品が本作と密接に「共鳴」していることを立証したのである。淡江大学の落合由治先生や、東呉大学の頼錦雀先生等からの鋭い質問に、臆することなく、端的に核心を突きながら応答していた。木下華子准教授と私が引率し、かつ博士後期課程の轟原さんも台湾まで応援に駆けつけた。

           淡江大学での学会発表:大岡愛梨沙さん(撮影:東城敏毅)

台湾のハルキストが集まるカフェ(撮影:大岡愛梨沙)

『ねじまき鳥クロニクル』の主人公の食べていたサンドイッチをイメージ
 轟原麻美さんは、8月12~15日に中国の内モンゴル自治区のフフホトにある内蒙古大学にて実施された「中国日本文学研究会全国大会及び国際シンポジウム」に参加し、「司馬遼太郎「兜率天の巡礼」における幻想」と題して学会発表を行った。
 轟原さんは、従来あまり研究されていなかった司馬遼太郎の初期作品「兜率天の巡礼」を、景教と古代日本との関係性や、作品に織り込まれた執筆当時の社会背景をもとに考察した。そこから司馬初期独自の幻想小説と見られてきた本作は、十分に社会性を備えたものであり、後に歴史小説家として評価されることになる司馬の特質が見出せることを解き明かした。会場からも多くの本質的な質問が出され、それに堂々と端的に答えており、海外の研究者にも興味のある有意義な発表となった。本学会には木下華子准教授が引率し、轟原さんの学会発表を支援した。

 内モンゴルの草原(撮影:木下華子)

 学会会場にて発表中の轟原麻美さん(撮影:木下華子) 

 
 現在、日本文学の研究も、国際的・学際的になってきており、もはや日本だけに留まっている時代ではない。大岡・轟原、二人の院生は、それを敏感に感じ取り、海外に飛び出して行った。そして、海外の研究者と互角に渡り合い、そして交流を深めてきた。本学科に彼女らのような大学院生がいることは、非常に心強いことであり、また、これから入学してくる大学院生にも、新たな指針を示してくれた。二人の新たなチャレンジに心からの拍手を送ると同時に、二人の研究の、これからの発展を心より祈念したい。

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